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【本】呉勝浩「白い衝動」感想・レビュー・解説

色んなことを考えた。

僕は昔からこんな疑問をいだき続けている。
「何故人は、夕日を美しいと感じるのか?」

調べたわけではないが、人間は誰しも夕日を見て美しいと感じるのではないかと思う。夕日を見て不快だと感じる人の話は聞いたことがないし、なんとも思わないという人も少ないのではないか。夕日を見ると、何故か人は美しいと感じるのだろうと僕は思っている。

何故だろう、と思うのだ。

物事に対する美醜というのは、バラツキが出るのが当然だと思う。人の顔でも、絵でも、服でもなんでも、誰しもが美しいと感じるものなどそうそうないと思う。しかし、夕日に限っていえば、夕日を美しくないと感じる人間を想像するのがちょっと難しいくらい、全人類的な感覚ではないかと僕は思う。そして、何故そんなことになっているのか、と思うのだ。

この感覚が後天的に身につくものだとはちょっと考えられない。生まれた時には誰もが夕日というものに対してフラットな感覚でいるのだけど、成長していく過程で夕日を美しいものだと認識するような流れは不自然だろう。そういう流れであれば、夕日を美しいとは思わない、という人間が一定数出てきてもおかしくないはずだ、と思えてしまう。

だから僕は、夕日を美しいと感じるこの感覚は、遺伝子レベルに刻まれた衝動なのだろう、と考えている。恐らく太古の昔から、何らかの理由があって、夕日を美しいと感じる人間が生き残ってきた、ということなのだろう。そういう感覚が、今も脈々と受け継がれているのだろうと思う。

だから僕は、「何らかの理由で生まれながらにセットされた抗いがたい衝動」の存在を許容することが出来る。

別の話をしよう。
僕は、恋愛が長続きしない。恋愛を始めてから数ヶ月で、とある衝動に襲われる。それは、「もう終わりにしたい」という衝動だ。どうしてもこの関係を続けていけないぞ、という強い衝動が湧き上がってくる。僕の中でこの衝動をどうにも抑えきれなくて、僕は恋愛というものを諦めることにした。

自分の中でこの衝動を何とかしようともがいていた時期がある。恋愛経験がそこまであるわけではないが、この衝動を押さえ込もうと、自分なりに出来る範囲で対策を取ろうとした。また、恋愛ではない人間関係を観察することで、恋愛と恋愛ではないのとで何が違うのかを見極めようとした。そういう試行錯誤を色々と繰り返すことで、僕は自分の内側から湧き出てくる「もう終わりにしたい」という強い衝動を、一応それなりに理屈で説明できるようにはなった。

どうにも抑えられない衝動、というのは存在するのだと思う。しかし、その衝動に何らかの説明がつけば、多少は落ち着く。僕の場合、その衝動は、「何かをしたい」というものではなく「何かを止めたい」というものだったから、単純に比較は難しい。「何かをしたい」という強い衝動が、何らかの理屈がつくだけで収まるのか、不明な部分は多い。それでも、誰かが説明をつけてあげることは大事なことなのだと思う。

今10万円もらうのと、1年後に11万円もらうのとではどちらがいいか、と問うような心理学の実験がある。多くの人が、今10万円欲しい、と答えるのだそうだ。

僕にはイマイチこのことが理解できない。僕は、1年後に11万円もらう方を選ぶ。もちろん、これは状況にもよる。借金まみれで返済に追われているとか、常に金欠だというような状況なら答えも変わるだろう。しかしこの質問は、「純粋に、今の10万円と1年後の11万円のどちらに価値を感じるか」という意図を持った問いなのだから、生活が逼迫するような財政状況を思い描く必要はないだろう。そういう、生活をすることは出来る、という状況でなら、僕は1年後の11万円を選ぶ。

アメリカでの話だが、プールと銃、どちらが危険かという問いがある。子供のいる家庭でなされた質問のようだ。多くの人は、銃だと答える。しかし、子供の死亡事故は、銃のある家よりプールのある家の方が圧倒的に多い。子供がプールに落ちて溺れてしまうからだ。しかしそれでも、人々は銃の方が怖いと感じてしまう。

飛行機の死亡事故と車の死亡事故を比較したら、圧倒的に車の死亡事故の方が多いだろう。しかし多くの人は恐らく、飛行機の方が危険な乗り物だ、と感じるだろう。飛行機事故の悲惨なイメージは、多くの人に鮮烈な印象を残すのだ。

何が言いたいのか。僕はこう問いたい。一度殺人を犯した者と、一度も殺人を犯していない者とではどちらが危険だろうか、と。

もちろん多くの人は、殺人者を危険だと考えるだろう。それは、当然の思考だと思う。先程の銃や飛行機と同じだ。さらに今回の例では、「殺人者」と「非殺人者」の違いは明白だ。「殺人者」は、既に一度殺人を行っている、という点が圧倒的に重い事実になる。この点が、銃や飛行機との明白な違いとなる。

しかし僕は、どちらが危険かという問いに、大差はないだろう、と答えたい。僕は、本当にそう思っている。何故なら、常に「非殺人者」の間からも「殺人者」が生まれているのだから、「非殺人者」を殊更に信頼する理由がない、と感じるからだ。


新たな殺人者は、常に「非殺人者」から生まれてくる。もちろん、かつての「殺人者」が再び殺人を犯すケースだってあるだろうが、殺人事件の大半は「非殺人者」が殺人を犯すケースだろう。恐らく厳密な調査をすれば、銃や飛行機の時と同じように、「殺人者」が再び殺人を犯すよりも「非殺人者」が殺人を犯す方が可能性が高い、という結論になるのではないかと僕は思っている。

けれど、人はやはり「殺人者」を拒絶する。
何故か。
それは、理解できないからだ。理解したくないからだ。

人が「非殺人者」を受け入れるのは、理解できるからだ。その人物が、これから殺人を犯すかもしれないのに、それでも受け入れられるのは、これまでに殺人を犯したことがないからだ。殺人という、普通受け入れられないような行動を起こしたことがない人間だからだ。「殺人者」を受け入れることが出来ないのは、今がどうあれ、過去に殺人という、絶対に許容できないような行為をしたためだ。

そんな風にして僕らは、「殺人者」を拒否していく。

僕は想像してみる。自分の近くに「殺人者」が住んでいる状況を。その人物が、過去に殺人を犯した人間だと知らなければ、知らないのだから平穏に過ごせるだろう。そしてそれを何らかの形で知った場合は、気をつけることが出来ると思う。想像力が貧困なだけかもしれないが、「殺人者」であることが分かっているなら、その人物と出来るだけ関わらないようにしたり、避けたり、誰かに注意したりということが出来る。

それは、ある日突然「非殺人者」が殺人を犯すという状況と比べたら、とても安全なのではないか、と思う。「非殺人者」が殺人を犯す場合、気をつけようがない。自分がいつ何時被害者になるか分からない。僕はそっちの方が怖いのではないか、と感じる。繰り返すが、僕の想像力が貧困な可能性はある。現実は、そうはいかないかもしれない。近くに「殺人者」が住んでいることが分かったら、僕も動揺するかもしれない。しかしその動揺は、「殺人者」がもたらすのではなく、「「殺人者」に動揺する周囲の人間」によってもたらされるのだ、と僕は信じたいのかもしれない。

今の10万円と1年後の11万円。銃とプール。飛行機と車。これらの問いは僕らに、僕らはイメージによって物事を判断しているに過ぎない、という現実を突きつける。実際の価値や危険ではなく、イメージの価値や危険に囚われているのだ、と。そういう視点で「殺人者」と「非殺人者」を捉えなおしてみる。ある物事に対して感じてしまう感覚を裏切ることは難しいが、そう感じてしまうという感覚を脇において物事を見る視点が求められる機会は多くあるだろう。自戒の念も込めて、僕はその重要性を伝えたいと感じる。

内容に入ろうと思います。
スクールカウンセラーの奥貫千早は、「人を殺したいという衝動を抑えられない」という高校生・野津秋成と出会う。
天錠学園は、私立でありながら、県が進める都市開発事業の一環として創設された学校であるという公的な性格を帯びているために、スクールカウンセラーが常駐しているという珍しい学校だ。千早は週に3日、敷地中央の森のなかにある「Cルーム」と呼ばれる場所で生徒を待っている。友人との関係がこじれてめんどくさいと悩み相談を持ちかける、中等部二年の桜木加奈を始め、ちょっとした相談から大きなものまで色んな話をしにやってくる。最近では、ゲンシロウという名の山羊の足の腱が鋭利な刃物で傷つけられるという事件があり、それと前後して「シロアタマ」というバットを振り回す怪物の噂も出回り始め、不安を感じた生徒がやってくることもある。
秋成は、ある日Cルームにやってきた。物腰は丁寧で、明瞭な物言いで、緊張もないように見えた。知性が高く、「正常と異常の定義」や「普通とは何か」という会話に対して的確な問いを挟んでくる。そしてしばらくして告白したのだ。人を殺したい衝動があるのだ、と。
どうしたものか千早は悩む。千早は「絶対悪」という概念を認めていない。「包摂」というのが彼女の研究の根底にあり、罪を犯した人間であっても社会は罪を償ったその人物を受け入れるべきだ、と考えている。そう考える以上、「絶対悪」という考えを認めるわけにはいかない。殺人にしても、純粋に殺人を犯したいのだという衝動の存在を認めない。殺人には、かならずそれ以外の理由がある、というのが千早の信念だ。だから秋成の主張を鵜呑みにすることは出来なかった。しかし、かと言って何もしないままでいいのか。千早は、もう一人いるスクールカウンセラーである大草登美子とも相談しながら、様子を見ることにした。
地元ラジオの局アナをしている夫の紀文が、ある情報を仕入れてくる。彼らが住んでいる箱坂町に、入壱要が住んでいるというのだ。16年前に、いわゆる「関東連続一家監禁事件」を犯した男だ。殺人は犯さなかったので出所も早く、親族の元に身を寄せているのだという。
やがて入壱の存在が、この町を混乱に陥れることになる…。
というような話です。

色々考えさせられる話でしたし、面白かった。物語の後半の展開や閉じ方には不満もあるのだけど、全編を通じて訴えかけてくる即答し難い問いかけに、自分だったらどんな答えを返すだろうか、と考えながら読んでいくのはとても楽しかった。

この物語は、犯罪者と社会、あるいは犯罪を犯すかもしれないと訴える個人の戦いなどが核となっていて、人によっては身近に感じることが出来ないテーマに思えるかもしれない。しかし決してそうではないと思う。

この物語は、究極的には、人間は人間を理解することが出来るのか、という問いかけだ。そしてその問いかけは、すべての人間が生きていく上で避けては通れないものだろう。

物語に、入壱要という男が登場する。かつて異常な事件を犯した男だ。人々は、彼のことを理解できないと強く訴え、排除しようとする。
気持ちは分かる。守るものがある人であればなおさら、そういう行動に出るだろう。

しかし僕は、一定の理解をしながらも同時に、怖さも感じた。人々は入壱要に対して「理解できない」と怒鳴る。しかし僕はその背後に「俺達は理解し合っている」という無垢な信頼が見えてしまう。その信頼が、僕には怖く感じられる。

他人のことを理解することなど出来ない。僕にとってそれは、生きていく上での大前提だ。理解できた、と思った時には、いつも立ち止まるようにしている。そして、そんなわけがない、と自分を落ち着かせる。


『自分の理解を超えた他人を信じることが、耐えられないのだよ。そもそも本質的に、理解できる他人などあり得ない。だからこそ我々は、まるで理解可能であるかのような振る舞いを日々積み重ねる必要がある。それを怠った者を、人は容易に受け入れない』

千早の学生時代の指導教授だった寺兼英輔は、人間が生きていく上で構築する人間関係の本質を、こうズバッと説明する。僕もその通りだと思う。そして多くの人は、「理解可能であるような振る舞い」を見て「理解可能だ」と思う。そう思いたいのだ。思いたい気持ちは分かる。分かるが、しかしそれはただの思いこみだ。

そういう思いこみを捨てられないからこそ、「理解できない」という理由で入壱要を排斥する動きが生まれる。「理解できない」他人などそこらじゅうにいるのに、その事実には目をつぶって、分かりやすく「理解できない」人間だけを排除しようとする。

僕は普段、意識的に「理解できない」行動を取るようにしている。そうすることで、「理解できる」という無言の圧力・囲い込みから脱することが出来ると信じているからだ。「こいつは理解できない、でも排除するほどでもない」という立ち位置をきちんと確保することが、僕が新しい集団に入り込む時の基本スタンスだ。この立ち位置をきちんと確保できないと、その後の人間関係が色々と厳しくなる。

「理解できる」と思われれば思われるほど、そこから外れる行動を取ることは難しくなる。僕はそれを肌感覚と言葉で分かっているから、「理解できる」病に囚われた人々と距離をおくことが出来る。「理解できる」病から脱することさえ出来れば、入壱要は問題ではなくなる。入壱要は、他の多くの他人と同じく、ただ「理解できない」人間だ、というだけに過ぎなくなるのだから。

僕にとって問題なのは、むしろ野津秋成の方だ。

野津秋成のことを考えると、僕は思考停止に陥るしかない。
僕が野津秋成と同じ立場だったら、一体どうするだろうか?いくら考えても、ある一定のところから先へと進めなくなってしまう。

野津秋成にも、そのことは理解できている。

彼は、自分の内側の「人を殺したいという衝動」を、どうしようもないものだと捉えている。それは、美味しいものを食べたい、とか、歌いたい、というようなものと同じくらい、本人には消しようのない衝動なのだ。もちろん彼は理性的な人間だから、殺人を犯したらどうなるのか理解している。家族に多大な迷惑を掛けてしまうことを、絶望的なこととして捉えている。しかしその理性は、殺人衝動を押しとどめる役には立たない。そのこともまた、彼は理解してしまっている。

彼は、まだ殺人を犯していない。そして、別に精神的に異常があるというわけでもない。秋成を診断する千早は、彼がどんな障害も有していないことが分かってしまう。至って正常だ。ただ、殺人衝動が抑えられないだけだ。

そんな人間はどうやって生きていけばいいのだろう?

これは決して殺人に限らないだろう。どうしても買い物が止められない、どうしてもパチンコが止められない、どうしてもゲームが止められない…。もちろんそれらは「依存症」という名前がつくだろうし、れっきとした病気だろう。秋成のケースと同列に比較は出来ないに違いない。しかし、物語を受け取る、という意味では、そこまで厳密になる必要はない。自分の中のどうしても消すことが出来ない衝動。それに囚われたまま生き続けなければならない人。そういう人には秋成の切実さは理解できてしまうだろう。

正直に言って僕には、そういう衝動はない。何もない。しかしそれでも、秋成が気になる。どうしようもない殺人衝動を抱えたまま生きていくという、自分ではどうにもならない十字架を背負った人間がどう生きていくのか。そのことを考えると、なんだかザワザワする。自分がもし秋成と同じ立場だったらどうしよう、という思考をふと続けてしまう。

この物語は、展開と共に様々な問いが放たれる。千早は様々な状況に直面することで揺れ動く。その葛藤と共に、即答できない問いが投げかけられる。「殺人者」を受け入れるという状況は、そうそうあるものじゃない。しかし、「理解できない(ように見える)」人を組織や社会の中に受け入れる、という状況なら日々起こりうるだろう。そういう時、自分がどういう態度を取るか。取っているか。取るべきか。

『入壱要や野津秋成のような人間と折り合いをつけられる社会を求めるのは、回り回って、それはあなたのためなんだ。あなたが、何かの拍子に人を殺してしまったり、心を病んでしまった時に、それでも幸福を諦めなくてもいいように』

祈りにも似た千早のこの想いが、少しでも広まればいいと、僕は思う。


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