【本】「ヒトリコ」「静電気と、未夜子の無意識。」「赤めだか」

額賀澪「ヒトリコ」

日都子がヒトリコになったきっかけは、金魚だった。

小学五年生の時、日都子はクラスメートの冬希と共に生き物係だった。クラスで金魚を飼うことになったが、日都子はクラスの人気者で、面倒くさい金魚の世話なんかしたくなかった。それを汲んだ冬希が一人で世話をかってでることに。しかしその冬希が、厄介な母親の影響もあって転校することになり、金魚の世話は日都子に回ってきてしまう。それでも嫌々世話をする日都子。そしてある日、その金魚が死んでしまう。冬希に偏執的な好意を抱いていた担任の教師は、調べもしないまま日都子が金魚を殺したのだと断定。人気者だった日都子はその日以来、クラスのはみ出し者となり、ヒトリコと呼ばれるようになった。
金魚事件の日まで日都子と親友だった嘉穂。幼稚園の頃から仲の良い男子だった明仁。三人の関係性は、その日以来壊れてしまう。ヒトリコは、ピアノを教えてくれる「キュー婆ちゃん」以外には、心を開かなくなった。
圧倒的な強さの中に時折弱さを同居させるヒトリコのあり方と、「後戻り出来ない何か」に常に心を刺されながらも中学・高校と進学していく若者たちの姿を描いていく。

子供の頃の僕は、「一人でいること」に恐怖を感じていたと思う。その当時、ヒトリコのように周囲から孤立してしまったら、とてもヒトリコのように強くは生きていけなかったように思う。だからこそ、僕はヒトリコのその強さに惹かれてしまう。そして、弱さを決して見せようとしない、その潔癖なまでの強さが心配になってしまう。

「学校」という名の空間には、ドアがとても少ない。
大人になれば、自分の力で外部と繋がるドアを獲得していくことは、子供の頃よりは容易になる。しかし子供の頃は、限られた世界・環境の中で、与えられた選択肢の内側に制限されたまま生きていかなければならない。「イマ」「ココ」にしか世界がないから、どうにかその中でやっていくしかない。何か武器を持っていればともかく、ないならないなりに戦うしかない。
自分がいる世界の“広さ”を実感することはなかなか難しい。そんな世界の中で、「関わらなくてもいい人とは関わらない」という信条を胸に孤高を保つのは簡単なことではない。

ヒトリコは、決して一人ではない。明仁は、ヒトリコとなった日都子と、それからもずっと関わろうとする。しかしヒトリコは、自らの意思で明仁を拒絶し続ける。明仁の強靭な意思が、日都子との歪な関係を成り立たせているのだが、しかしどうやっても明仁の力では日都子の心を開くことは出来ない。

そんな硬直状態が後半、雪解けのようにして解消されていく。ある人物の存在が、ヒトリコを少しずつ日都子に戻すような力を与えていく。そこで描かれるヒトリコの複雑な感情も見事だ。ずっとヒトリコでいたがために、日都子に戻ることへの恐怖心が生まれている。孤立よりもむしろ、予期せぬ変化を恐れるという気持ちはよく分かる。

ヒトリコとして存在することで日都子の時計はずっと止まっていた。しかし、日都子は前に進める。たとえ、ヒトリコを引きずったままであったとしても。きっと、進んでいく。そういう予感を抱かせるラストがとても素敵だ。

木爾チレン「静電気と、未夜子の無意識。」

『だってみんな、未夜子のかわいいという部分しか見ていないのだ。みんな、未夜子の中身が何で出来ているかなんて、少しも覗こうともしない』

『だけど未夜子はいつも、どれだけ男の子に「かわいい」と言われたって嬉しくなかった。むしろ、かわいいと言われるたび、興ざめするような感じがした。だってみんな、未夜子のかわいいという部分以外、見ようともしなかったのだ』

未夜子は、それまで感情のない容れ物みたいなものだった。女の子からは散々嫌われ、見た目のいい男の子と同時にたくさん付き合ってエッチして、そんな風にして毎日生きてきた。生きてきたというか、過ごしてきた。どれだけ綺麗な男の子たちと付き合っていても退屈だったし、女の子たちからどれだけ陰口を言われようがどうでもよかった。
ある日未夜子は大学のキャンパスで、とても変な人を見かけた。重心があるのかわからないようなフラフラした歩き方をして、格好もとても変だった。亘という名前であることはすぐに分かった。背負っているリュックに、でかでかと名前が書いてあったからだ。
未夜子は、かみなりに打たれたみたいになった。
それは、今まで経験したことのない衝撃だった。自分がどうなったのか、よくわからなかった。とにかく未夜子は、亘の後をつけていって、どうにか連絡先を聞いて(でも、何故か住所しか教えてもらえなかった)、そして家に押しかけてエッチした。
十一回エッチをして、そうして未夜子は亘に会えなくなった。未夜子は、それから二年間、息を止めているかのように、水中で過ごしているかのように、なんだか窮屈になった。

「キレイ」とか「かわいい」とか「かっこいい」とかって、自分で選んだわけじゃない。だから、それが「自分そのもの」とどれくらい一致するかが大事だよな、と昔から思っていた。「キレイ」と言われることで、「キレイである自分そのもの」を受け入れていける人もいるだろう。しかし一方で、「キレイ」が「自分そのものの中心にない」場合、どれだけ褒められても嬉しくないだろうな、と。未夜子の悩みは、一見贅沢に思えるのだけど、実はそうではないのだろうと僕は感じている。

みんな同じ。同じことしか言わない。「かわいいね」「綺麗だね」そんなことしか未夜子に言わない。中身なんて全然見ない。未夜子に中身が何もなくたって、なんの問題もない。可愛ければそれでいい。だから、未夜子も執着しない。固有名詞を覚えないし、彼氏のことはみんな「君」と呼ぶ。
そんな風に、まつげの先まで意思が通っているような感じのする「女の子」ではなく、輪郭がぼんやりして定まってない感じのする「おんなのこ」として未夜子は生きている。

全体的に、なんだかずっと夢の中にいるみたいだ。タイトルのことを考えれば、「未夜子の無意識」の中にいるような感じ、と言うべきだろうか。執着心のない、非常に限定された感覚器からの情報と、未夜子のどこから引っ張ってくるのかわからないとりとめのない思考がゴタっとしていて、とても混沌としている。「言葉未満」の材料がぐちゃぐちゃっとなって、いつの間にか「言葉っぽく見えるもの」に仕上がりました、というような文章で小説が構成されている。

ゴールがあるのかどうかさえわからない迷路をぐるぐる回っているみたいなもので、「未夜子の無意識」の中で、僕達もぐるぐるする。なんとなくその中は空気が粘ついていて、ぐるぐるしている間にちょっとずつ何かに絡め取られていく。そうやって自分の動きも、そして思考さえも鈍くなっていく。その感覚が、僕には心地よい。ストーリーよりも、雰囲気を楽しむというタイプの、不思議な小説だ。

立川談春「赤めだか」

「赤めだか」というのは著者の造語だろう。インターネットで調べると、「赤めだか」は「発育不良の金魚」のことを、そしてそれはつまり「一人前になれない者」のことを指しているのだという。談春氏が、自身のことを謙遜してそんなタイトルを付けたのだろうか。

50年に一度出るかどうかと言われるほどの落語の天才である立川談志。本書は、そんな談志に弟子入りし、真打ちになるまでの自身の経験を描いた作品だ。

もちろん本書は、談春氏の話である。高校を中退し、両親に勘当されつつも談志師匠に弟子入り。新聞配達をしながら生計を立て、師匠のムチャクチャな要求に応え、同じく修行の身であるおっちょこちょいな弟子の振る舞いに翻弄されながらも、一人前になっていく過程は実に面白い。落語というかなり特殊な世界の中で、僕ら日常の世界では起こりえないし通用しもしない出来事が山ほど出てくる。その一端を垣間見られるのは実に新鮮だ。

しかし本書は、談春氏の物語であるという以上に、やはり、談志師匠の物語でもある。僕は本書を読むまで落語のことはまったく知らなかったのだけど、立川談志というのは落語の常識を打ち破った人物だと知った。談志は、昇進基準の曖昧な落語協会を単独で飛び出し、勝手に「立川流」を創設してしまう。「古典落語を50席覚えること」という明確な昇進基準を打ち出し、クリアしさえすれば、年齢も弟子入りした順番も関係なく昇進するという仕組みを作り上げる。そうやって後進を育てながら、自身は自身で落語の世界でトップクラスの芸を磨き続けるのだ。

落語協会を飛び出して生まれた立川流だけに、寄席がない。通常前座は、寄席に出て力を付けていくが、立川流にはそれがない。寄席と絡んで前座がやるはずの様々な雑用もない。立川流の弟子たちは、落語協会所属の弟子たちとは比べようもないほど有り余る時間を抱えながら(談春は特例で認められていたが、前座はアルバイトをしてはいけないという不文律もあった)、何をすべきか自分自身で考えていかなければならないという環境に置かれることになる。そういう環境の中で、談春氏は頭角を表していく。

談志という強烈で絶対的なトップの元で、「立川流」という玉石混交の世界が生み出されていく。談志が語る、落語や生き様への価値観の数々は、弟子たちに、そして読者にも染みこんでいくことだろう。「落語とは、人間の業の肯定だ」と論じた談志。弟子の育て方にもまた、「人間の業の肯定」が垣間見えるのである。

『よく芸は盗むものだと云うがあれは嘘だ。盗む方にもキャリアが必要なんだ。最初は俺が教えたとおり覚えればいい。盗めるようになりゃ一人前だ。時間がかかるんだ。教える方に論理がないからそういういいかげんなことを云うんだ。』

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