【本】「今を生きるための現代詩」「君はレフティ」「魔法使いの弟子たち」

渡邉十絲子「今を生きるための現代詩」

僕は、国語の授業が嫌いで嫌いで仕方なかった。ずっと、なんて意味不明な授業なんだ、と思い続けていた。あるテーマについて皆で考え方を議論するような授業は別にいい。僕が嫌いだったのは、文章や作品全体をある一通りの解釈に押し込めようとするやり方だ。

その時主人公や作者がどう感じていたかなど、読んだ人それぞれが自由に感じればいい。何故そこに「答え」が存在するのか、僕にはずっと理解できなかった。何故そういう読み方を強制しようとするのか、まるで理解できなかった。今でも理解できないままだ。

本書は、僕が抱き続けてきた「国語という教科が持つ価値観」に対する違和感を肯定してくれる作品だった。

『もともと、日本人は詩との出会いがよくないのだと思う。
大多数の人にとって、詩との出会いは国語教科書のなかだ。はじめての体験、あたらしい魅力、感じ取るべきことが身のまわりにみちあふれ、詩歌などゆっくり味わうひまのない年齢のうちに、強制的に「よいもの」「美しいもの」として詩をあたえられ、それは「読みとくべきもの」だと教えられる。そして、この行にはこういう技巧がつかってあって、それが作者のこういう感情を効果的に伝えている、などと解説される。それがおわれば理解度をテストされる。
こんな出会いで詩が好きになるわけないな、と思う。こどもの大好きなマンガだって、こんなやり方でテクニックを解説され、「解釈」をさだめられ、学期末のテストで「作者の伝えたかったこと」を書かされたら、みんなうんざりするにちがいない。詩を読む時の心理的ハードルは、こうして高くなるのだ。
人がなにかを突然好きになり、その魅力にひきずりこまれるとき、その対象の「意味」や「価値」を考えたりはしないものである。意味などわからないまま、ただもう格好いい、かわいい、おもしろい、目がはなせない、と思うのがあたりまえである。
詩とはそのように出会ってほしい。』

本書は、現代詩の世界の中で特異な立ち位置にいる著者が、詩とはなんであり、どう接していくべきなのかについて書いた本である。しかし、ここで書かれていることは、決して詩にしか当てはまらないものではない。この作品では、「今の自分にはよく分からないもの」とどう向き合い関わっていくのか、そのスタンスが描かれているのだと感じる。

分からないものは分からないままでいい。「解釈」ということを捨てて、体内に取り込んでみる。そのものを否定せず、今理解できないからと言って遠ざけず、とりあえず受け入れてみる。そうすることで、いつか何かの芽を出すかもしれない。分からないままであったとしても、別に特に困ることもない。よく分からないものとは、そのように接したらどうだろうか、と提言する。著者はもちろん詩について書いているわけだけど、詩以外のありとあらゆる価値観を前にした時、僕らはこういう風でいるべきなのだろう、と思うことが出来る作品なのだ。

『すべての人には、「まだわからないでいる」権利がある。』

学校で答えばかり追わされ、今の自分に理解できる価値観ばかりに寄り添いシェアしてしまう世の中では、分からないものを分からないまま受け入れる、というスタンスは益々重要になっていくのではないか。その時にこの一冊は、あなたのスタンスを定める役に立ってくれることだろう。


額賀澪「君はレフティ」

古谷野真樹はある日湖に落ち、全生活史健忘という、経験は忘れているが知識は覚えているという記憶障害を負うことになった。
夏休み明け、クラスメイトのほとんどを記憶していない古谷野は、しかし、学校が始まる前に会った二人だけは認識できた。生駒桂佑と春日まどか。部員三人だけの写真部のメンバーであり、この三人は古谷野が記憶を失う以前、よく一緒にいたのだという。彼らに支えられながら古谷野は、たどたどしくも学校生活を送るようになる。
そんなある日、学校中に「7.6」の落書きが見つかるという不思議な出来事が起こる。古谷野はこれを、自分に向けられたメッセージなのではないかと考えるようになる。調べを進める中で古谷野は、様々な人の記憶の中にある「記憶を失う以前の古谷野」に出会い、今の自分と比較する。自分は記憶を失ったことで、さらに何を失ったのか?生駒と春日は自分のことをどんな風に見ているのか?やがて古谷野は「7.6」の落書きの犯人を知るが…。
というような話だ。

この作品の中でどんな価値観が描かれるのかは、作品の核の部分と密接に結びついているために書くことは出来ない。しかしこの作品は間違いなく、価値観の狭間でもがく人々を描いた作品だと言える。

記憶を失うという出来事は、古谷野にとっては「結果」である。古谷野はその現実を受け入れ、記憶を失ったという結果と共に新しい人生を進んでいく。しかし、古谷野が記憶を失ったという出来事は、別の側面から見れば「きっかけ」でもある。そしてそれをきっかけとして、ある価値観が結果的に浮き彫りになっていく。記憶を失うという出来事が、作品全体のあらゆる部分に影響を及ぼし、作品の屋台骨にも原動力にもなっている、という構成がとても巧い作品だと思う。

周りとは異なる価値観を持った上でどう生きていくのか。その価値観を知った上でどう振る舞うのか。複雑に絡まりあった関係性の中で、かつて知っていたはずの真実を再び取り戻すことになった古谷野。彼を中心とする周囲の人間の奮闘と葛藤が、読む者を揺さぶる物語だ。


井上夢人「魔法使いの弟子たち」

山梨県甲斐市にある竜王大学医学部付属病院で、謎のウイルスが蔓延、既に死者が出ているという一報を知ったフリーライターである仲屋京介は、出入りしている雑誌編集部からの依頼で、現地まで足を運んだ。病院は完全に封鎖され、取材も何も出来ない。そしてそんな中彼は、不幸にも「竜脳炎」に罹患してしまう。致死率ほぼ100%という謎の強力なウイルスに…京介は打ち克った。
しかしウイルスは彼に、変わった「後遺症」を残すことになった。そんな後遺症を持って生き残ったのは3人。京介と、病院外部へ竜脳炎を広めたとされる落合めぐみ、そして病院の入院患者だった興津繁の三人だ。最初の罹患者だと思われている、ウイルス研究所の研究員であり、落合めぐみの婚約者でもある木幡耕三も生存者の一人だが、彼は意識不明のまま目を覚まさない。
京介たちは一様に、それぞれ違った「特殊能力」を身につけることになった。彼らは、「竜脳炎」の生き残りという汚らわしい存在として嫌悪され、また、常識では理解できない「特殊能力」を身につけている、ということで賛否を巻き起こすことになる。
彼らは研究対象者として病院で生活し、社会との接点を取り戻すためにテレビに出るようになっていくが、しかし、彼らが持つ「もう一つの特殊性」が顕になっていくことで、彼らはどんどんと追い詰められていくことになる…。
というような話だ。

この作品は、ウイルス感染から始まるパニックモノのエンタメ小説として読まれる作品だと思うが、ただそれだけの作品ではないと僕は感じる。この作品は、社会から隔離されて生きざるを得なくなった特殊能力者たちの圧倒的な孤独についても描いているのだ。

彼らは、「竜脳炎」のウイルスを撒き散らす存在かもしれない、として忌避される。科学者は安全だと言うが、世間はそうは見ない。彼ら生き残りと接すると「竜脳炎」に感染するのではないか、という恐怖を取り除くことは容易ではない。
さらに、彼らが獲得した「特殊能力」もまた、彼らを遠ざける要因になる。理解できない能力を獲得したという事実のせいで、彼らは普通の人間として扱われなくなる。彼らは当初、科学者の研究対象としてしか社会と関わることが出来なかった。理解してもらえない孤独、同じ人間なのに他の人と共存出来なくなってしまった孤独。作品の随所に、そういう孤独が差し込まれていく。

読みながら、彼らを受け入れることの難しさはとてもよく理解できると感じる。特に、彼らと接すると「竜脳炎」に感染するのではないか、という恐怖は、簡単には拭えないだろう。これは、現実の歴史にも何度も登場する葛藤だ。ハンセン病患者の隔離や、広島・長崎・福島での放射能に関する恐怖などだ。そういう時、どうするべきなのか、という結論が、この作品に書かれているわけではない。エンタメ作品でありながら、排除される側の孤独を感じ取ることが出来るこの作品を読んで、自分ならどうするかを考えてみるのもいいかもしれない。

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