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【本】新井見枝香「探してるものはそう遠くはないのかもしれない」感想・レビュー・解説

先日、「Nogizaka Journal」というサイトに、「自己不信なプロデューサー・松村沙友理」という記事を書いた。その冒頭で僕は、こんなことを書いている。

【僕がグラビアやライブにあまり興味が持てない理由の一つは、外側から見るだけでは「ホントウ」に辿り着けないと思っているからだ。もちろん、言葉も嘘をつくし、「ホントウ」を正確に表現できないことだってある。それでも、少なくとも僕にとっては、本人の口から出る言葉の方が、より「ホントウ」に近いと感じられる。だから僕は、彼女たちの言葉を見聞きして「ホントウ」を知りたいと思ってしまうし、その過程で、外側から見たイメージを覆される瞬間を楽しいと感じる。】

同じようなことがこのエッセイの中に書かれていた。

『どれほど言葉をやり取りしても、傍で長い時間を過ごしても、その人が書いたエッセイを読む以上に、その人の本当に触れることは難しいような気がする。
少なくとも、私は知っている人が書いたエッセイを読んで、1から10まで思った通りだと思ったことはない。
もちろん、日記ではなく、人に読まれることを前提にして書いている文章なのだから、虚飾やサービスもあるだろう。
でも、見抜けるでしょう?そういうの、わかった上で読んでいるでしょう。
言葉通りでなくても、その人がどんな人で、何を考え、何に本人ですら気づいていないのか、エッセイを読む人は触れることができるのだ』

分かるわぁー、と思う。

僕は乃木坂46のファンだが、ファン活動の中心は、雑誌のインタビューを読むことである。握手会にもライブにも行かないし、雑誌のグラビアにもさほど興味はない。とにかく、彼女たちの発した言葉に関心がある。

もちろんエッセイとインタビューは別物だろうが、言わんとしていることは共通するはずだと思っている。頭の中の世界を文字にするのでの、問われて答えるのでも同じだが、結局のところ、「言葉」というものを使っていかに自分を表すか、ということだ。「目は口ほどに物を言う」とか「百聞は一見にしかず」みたいなことわざもあるし、「インスタ映え」って言葉が流行語大賞になってしまう時代だったりするから、視覚的な情報の強さみたいなものをみんな信じているような気がするんだけど、僕はそこまで信頼していない。言葉ももちろん絶対じゃないけど、言葉を取り込み言葉を吐き出すことを続けてきた人間の、言葉で切り取ることが出来る自己認識の方を、僕はより信頼している。

言葉を必要とする人間は、世界に馴染めない人間だ。

考えてもみてほしい。日常の生活や周囲の人間関係に違和感を覚えることがなければ、言葉なんか必要としなくたって全然生きていける。「カワイイー」「ヤバイ」みたいな、何かを言っているようで何も言っていない言葉だけで仲間内の会話は済んでしまうし、価値観が合う者同士なら、写真やスタンプなんかを使えばコミュニケーションは取れてしまう。だから、世界に馴染めていればいるほど、言葉なんか要らなくなるのだ。

でも、世界にどうしても馴染めない人間というのも、もちろんいる。僕もそうだ。だから、考えるしかない。自分の何がダメなのか、周囲に溶け込むためにはどうすればいいのか、目の前のこの状況は何故生まれたのか、他人から求められていることは何なのか、そしてそれは本当に自分がしたいことなのか――世界に馴染めなければ馴染めないほど、こういうことを考えずには生きていられないし、そうであればあるほど、思考のための言葉を切実に必要とする。

基本的にこのエッセイには、アホみたいなことがアホみたいな文章で綴られている。そのアホさ加減には、驚かされるほどだ。

『シャワーの〆に手鼻をかむ』

『私はブラジャーを1枚も持っていない』

『イカを捌くときは、全裸に限る』

『また絶望感に心が支配されそうになったので、ハンディブレンダーできなこバナナミルクを作る、一服した。健やかなる甘みよ、豊富な繊維質よ。我が心と腸を救っておくれ。
なんて、どんなに大地の神に感謝の祈りを捧げても、健康に暮らしても、ウイルス兵器をぶち込まれたら我々ひとたまりもないのですけどね。ハハッ。』

いや、正直、何を書いているんだお主は、というような話のオンパレードだ。

いや、本書を貶したくてこんなことを書いているのではない。これからダラダラと、本書の面白さについて書いていくのだが、まず僕が書いておきたかったのが「言葉」の話であり、「世界に馴染めない」話なのだ。

全体的にアホみたいな本なのだが、全部かというとそうではない。たとえば、不意にこんな文章が出て来る。

『私も同じようなことに悩んでいた中高時代、学校へ行かず、LIVEに足を運んでいた。私がいてもいなくても全く影響のない場所で、感情の動きを全てライブハウスの空気に委ねる時間が、切実に必要だったのだと思う』

こういう文章が出てくるから侮れないし、本書で醸し出される「アホさ」が、計算によって作り出されたものなのだ、ということが伝わってくるのだ。

エッセイを最初から最後まで読むと、きっと皆分かるだろう。著者は言葉を持っている人なのだ、と。そして、言葉を獲得した背景には、世界への馴染めなさが潜んでいるのだ、と。


『人生のうち、どうしても衝動を抑えられず、何度か積み上げたものを全てぶっ壊すということをしてきた。その都度人を傷付け、期待を裏切り、自分自身への信用を失くしていった』

この文章は、僕が書いたんじゃないか、と思うほど、最初の「人」から最後の「た」まで余す所なく僕の話でもある。疑問なく世界に馴染める人は、こんなことにはならない。そう、必死で生きているだけなのに、いつの間にか世界の淵から滑り落ちてしまう人間にしか分からない葛藤や絶望が、著者の人間性を作り出す土台となっている。

そしてだからこそ、このエッセイが面白いものになっている。テーマや文章やエピソードがどれだけアホらしくても、著者が「滑り落ちてしまう人間」であり、「でも滑り落ちすぎないようにと努力した人間」であり、「その過程で言葉を取り込んでは吐き出してきた人間」である以上、そこには何かが宿る。「言葉」というのは、価値観や概念を通す「ざる」の網目のようなものだ。蓄積すればするほど網目が細かくなり、価値観や概念をより繊細に漉すことが出来る。

『共感せずとも、人の気持ちがわからない人間ではない。本当はわかっていないのかもしれないが、そんなのはみんな一緒だ。
悪口はいくらでも言えるし、瞬間湯沸かし器ではあるが、それをSNSで世界に発信しないのは、埋もれるほど小説を読んできたおかげだと思っている』

言葉を蓄積し続けてきた著者は、世界をより細かな網目を通して見ることが出来る。著者が世界をどう見ているのか、という点にこそこのエッセイの主眼があるのであって、それをアホみたいな文章で表現しているという点は、書く時のテンションや売る戦略など、本の内容そのものとは違うステージにあるものだ。

立ち読みでパラパラページをめくった人が、アホみたいな文章だなぁ、という理解でストップしてしまわないことを祈る。

『大人になったらできるだろうと思っていたことが、何もできていません。
会社員に向いていない。
結婚に向いていない。
大人に向いていない。
エッセイを書いてみて、改めて自覚しました。』

本書を読んでると、似てるなぁ、と思う部分がたくさんある。僕も、会社員に向いてないし、結婚に向いてないし、大人にも向いてない。

『私はこれでも人間なのだろうか』

これも昔思ったことがある。祖父が亡くなった時だ。それまでにも身近な人の死を経験していたのだけど、祖父が死んだ時も、悲しいと思わなかった。今に至るまで、人が死んで悲しいと思ったことが一度もない。あぁ、これは人間ではないんじゃないだろうか、と思ってちょっと悩んだこともある。今では、まあ別にいいか、悲しくないもんはしょうがない、と開き直っているのだけど。

著者はエッセイの中で、自分がサイコパス扱いされているのではないか、と不安を抱く場面があるのだけど、まあきっと著者はサイコパスだろうし、僕もたぶんサイコパスなんだろうな、と思う。まあ、たぶん犯罪なんかには手を染めないと思うので、害のないサイコパスだと思って放置しておいていただけるとありがたい。

他にも共感できるポイントが多すぎる。

『私は私を世界一信用していない』

『基本的に人間が好きではないのだ』

『寂しいという気持ちがどういうものなのかはなんとなくわかるのだが、実感したことはない。
人に恋することはあるが、ただ人が恋しいと思ったことはないし、ただ寂しいから人に会いたいと思ったこともない』

『自分の努力が及ばないところで褒められてもピンとこないし、自分を信じていないから他人が言うことも信じられない』

あれ、これ僕が書いたエッセイだっけ?と錯覚するぐらい、書いてあることが僕のことで、なんというか驚く。

しかし、もっと驚かされるのは、内側の核の部分はたぶん結構近いはずなのに、外側の見えている部分はこんなにも違うのか、ということだ。

先程僕は、「著者が世界をどう見ているのか、という点にこそこのエッセイの主眼がある」と書いた。いや、その表現に偽りはないのだけど、しかしだな、著者が経てきた世界そのものも、やっぱりちょっとおかしいとは思うのだ。普通に生きてて(しかも、僕のようなメンタリティの人間が、である)、そんなシチュエーションに遭遇することなんかないだろ、というようなエピソードも出て来る。「おなくら」の話とか、「女マリリン・マンソン」の話とかである。自分で突っ込んでいっている場合もあるし、引き寄せられている場合もあるだろうが、なんというか、何故そんなことが起こる???と思いたくなる。おかしい。僕も、頭のネジの配置がちょっと違えば、著者のように非日常的なシチュエーションに遭遇できる人生だっただろうか?

また、人としても、著者と僕とでは同じメンタリティを持っているようには見られないだろう。いや、どうだろう。自分ではなんとも言えないが、広く括れば同じ方向にはいるけど(サイコパスだし)、でも別物、みたいな見方になるのではないか、という気はする。そのこともまた、なんというか、不思議だなぁ、と感じながら読んでいた。

著者が世界をどう見ているのか、という話に戻ると、個人的には、トイレットペーパーを買う時の「テープでよろしいですか?」への疑問なんかは秀逸だと思う。僕も、エッセイに書かれていることとまったく同じことを思うが、これが秀逸だと感じるのは、わざわざメモするほどのエピソードでもないから、エッセイに書こうとした時に思い出せる可能性が低いと感じられる点だ。いや、もしかしたら著者にとっては大問題なのかもしれないからその辺りのことは断言は出来ないのだけど、そういう日常の中の、そんな些細なことをよく覚えていて、かつ、エッセイの中で適切なタイミングで登場させられるものだな、と感心した。

さて、ここでちょっと変なことを書こう。
僕は本書を読み始める前、もしかしたら本書は面白くないかもしれないぞ、と思っていた、という話だ。

僕は本書を読む前に、浅田次郎の「壬生義士伝」という、上下巻合わせて900ページを超えるような長い小説を読んでいた。だから、「壬生義士伝」の途中途中で、本書「探してるものは~」の適当なページ数を開いて拾い読みしていたのだ。

ただその時は、正直、あまり面白いとは思えなかった。2~3個エッセイを拾い読みしてみたのだけど、つまらなくはないけど言うほど面白くもないぞ、という感じだった。


だから、「壬生義士伝」を読み終えて、さぁ頭からちゃんと読みますか、という時には、あまり期待していなかった。

けど、頭から終わりまで通しで読んでみると、2~3個拾い読みした時とはまったく違う印象で、実に面白かった。

この不可思議な現象を、自分なりに分析してみた。

恐らくそれは、「こいつマジ何書くか分からねぇ」という謎の緊張感の中に取り込まれていった、ということなのだと思う。

本書を読むと、5ページに1回ぐらい、「おいおいそんなこと書いていいのか?」と感じる。書店員として、仕事人として、女性として、人として、そんなこと書いちゃってホントに大丈夫?と思うような描写がバンバン出てくるのだ。

僕自身も、何か文章を書く時は、自分が恥ずかしいと思うこと、出来れば書きたくないと思うことを書かないと面白くならない、と思っているので、比較的普通の人なら書きにくいと感じるだろうことも書くようにしている。でも、そんなレベルではない。読んでる側は別に問題ないけど、書いてるあなたには色々支障あるんじゃないでしょうか?と思うようなことが一杯書かれているのだ。

だから読み進めているとだんだん、「こいつ次は何言うんだ?」というような気分になってくる。

話は突然変わるが、ちょっと前に「素晴らしき映画たち」という映画を観た。「スターウォーズ」や「インディー・ジョーンズ」「ET」と言った誰もが知っている劇中曲を、誰がどんな風に生み出していったのかを描くドキュメンタリー映画だ。

その中で、「JAWS」のあの「ドゥードゥン」という、サメが登場する時の音楽を作ったエピソードも出てくる。映画の中で誰かが、「「JAWS」はあの効果音がなければ、何がなんだか分からない映画」と語っていたことを覚えている。

で、本書の著者に対しての「こいつ次は何言うんだ?」という感覚は、まさに「JAWS」の「ドゥードゥン」という効果音のようなものなのだと思う。あ、なんか来るぞ、という感覚に囚われるのだ。頭の中で「ドゥードゥン」と鳴るのだ。で、やっぱりなんか来るのだ。うわ、来たよ、という感じになる。拾い読みしている時には「ドゥードゥン」は鳴らなかったのだ。だから、頭から通して読む時と、印象が変わるのである。

『しかし、(エッセイを書くことで)失ったものならある。
深刻さだ。
過去に感じた怒りや悲しみが人生から消えることはないが、文章にした途端、深刻さを失い、それはもう、元には戻らなかった。全然笑えない話だったはずなのに』

言葉を蓄積すればするほど、世界を細かく見ることは出来る。しかし、どれだけ言葉を蓄えたところで、言葉というものが近似値であるという事実に変わりはない。感情や価値観や思考を、一片も漏らさず言語化することなど出来ない。それらは、言語化する過程で、どうしても何かが欠落してしまうのだ。著者の場合、欠落したものが深刻さだったのだろう。

ただ、言語化することで、「自分はこんなことを考えていたんだ」と感じる機会もある。少なくとも僕は、文章を書いていて時々そういう状態に陥る。頭の中にある概念や価値観について書いているはずなのに、出力された言葉を目で認識することで、自分の頭の中の概念や価値観を理解する、という瞬間がままあるのだ。

「探しているもの」が、言語化することでしか見えてこない自分の頭の中にあるのだとすれば、「そう遠くはないのかもしれない」という認識は、エッセイを書いた今だからこそ、より正しさに近づいたと言えるだろう。


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