【本】「ランボー怒りの改新」「爆撃聖徳太子」「百万畳ラビリンス」

前野ひろみち「ランボー怒りの改新」

本書を読んで感じたことは、また一人とんでもない作家が現れたな、ということだ。

正直に言う。僕は、本書が小説として面白いかどうか、うまく判断できていない。4編の短編が収録された作品だが、面白いか面白くないかではなく、とにかく凄いとしか言えない。

物語はどれも、もうほとんど破綻していると言っていいのではないかと思えるものばかりだ。田舎にある、ここは本当に営業してるんだろうか?というような個人店みたいなものだ。しかし、恐る恐る物語の中に入っていくと、その世界観や破天荒さに度肝を抜かれる。意味が分からないのだけど、とにかく勢いで読まされてしまう、という感じだ。もの凄い疾走感である。

例えば表題作である「ランボー怒りの改新」は、推古天皇の御代に蘇我馬子が火蓋を切ったベトナム戦争から帰還したランボーが主人公だ。意味が分からないだろう。僕も意味が分からなかった。設定を聞いただけで、物語として破綻していることは確実だ。何故蘇我馬子がベトナム戦争を起こせるのか?中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏暗殺を策謀している裏で、何故ベトナム戦争帰りのランボーが跋扈しているのか?メチャクチャである。しかし、先程も書いたが読まされてしまうのだ。

他の3編も、「ランボー怒りの改新」と比べれば設定は大人しく見えるが、どの話も常人には思いつけないようなぶっ飛んだ世界が繰り広げられていく。本書の解説を、作家の仁木英之氏が書いているが、この解説も、著者・前野ひろみちの謎をさらに押し広げる役割を果たしていて非常に面白い。

京都を舞台に作品を生み出す森見登美彦や万城目学と違い、前野ひろみちが舞台にするのは奈良だ。今後前野氏が奈良を舞台に、どんな破天荒な物語を繰り広げてくれるのか、楽しみである。


町井登志夫「爆撃聖徳太子」

『戦いじゃないぃぃぃぃぃぃぃっ、挨拶したいんだぁぁぁぁぁぁぁっ、攻撃しちゃだめだよぉぉぉぉぉぉっ』

これは、作中に登場する聖徳太子の叫び声である。

「聖徳太子」という名前はもう、社会の教科書から消えているらしい。かつての1万円札の肖像であり、「一度に10人の話を聞けた」という逸話や「憲法十七条の制定」などの歴史的偉業で知られていた人物だが、研究が進むにつれて実在が疑われてきたようだ。しかしそれでも、かつて歴史の授業で聖徳太子を習った者には、聖人君子で素晴らしい人物だった、というようなイメージではないだろうか。

しかし本書では聖徳太子は「狂人」として扱われている。もっともらしい理由をつけて聖徳太子を「狂人」として描き出すことで、聖徳太子の様々な伝説に説明をつけてしまうというその発想力にも驚かされるのだが、本書は何より、小説としてべらぼうに面白い。

本書の主人公は、こちらも有名な小野妹子だ。西暦607年、小野妹子が倭国外交使節団代表として、当時の超大国・隋国の皇帝・煬帝に謁見する場面から始まる。あの有名な「日、出ずるところの天子」という手紙を皇帝に差し出した小野妹子は、皇帝の逆鱗に触れ捕らえられてしまう。そこから時代を遡り、小野妹子がどういう経緯で聖徳太子と出会い、それからいかにして小野妹子は聖徳太子のパシリになっていったのか、その過程を、出来るだけ史実(「日本書紀」の記述)に忠実に、しかし大胆な想像を交えながら描き出していく。

冒頭からしばらくは、聖徳太子はただの「狂人」にしか見えないだろう。奇声を上げ、ひとところに留まらず、神出鬼没で何をするか分からない。皇族であるが故にやたらな扱いは出来ないが、誰もが持て余している。聖徳太子はそんな存在として描かれていく。

しかし、読み進めるにつれて、聖徳太子のイメージがどんどん変化していくことに気づくだろう。

聖徳太子は、たった一人で(まあ、小野妹子をパシリとして使ってはいるんだけど)随に闘いを挑む。これが、どれほど無謀なことだったか。『皇帝が支配する隋国は、この時代の倭人にとって、世界の大部分と言っても過言ではなかった』『対するに、妹子の倭国。辺境の島。文化程度においては、おそらく朝鮮の田舎にも劣るだろう』倭国と隋には、それほどの歴然とした差があった。それなのに、聖徳太子は超大国・隋に闘いを挑む。

小野妹子には、聖徳太子がそこまでする理由が分からない。闘わず、隋の属国の一つとして大人しくしておけばいいではないか、と考えている。しかし次第に、聖徳太子が何を考えているのかが理解できるようになってくる。どうせ「狂人」の考えは理解できない、と諦めるようにして見ていた聖徳太子が、未来の日本を見据えて隋との無謀な闘いに挑んだのだ、ということが小野妹子にもわかってくる。読み進めるにつれて、ただの「狂人」でしかなかった聖徳太子が、改めて凄い人物に思えてくる。この変化は、本書の読みどころの一つだ。

また、小野妹子のパシられっぷりもまた読みどころだろう。特に、高句麗での死闘は圧巻だ。隋の兵士100万に対し、高句麗を守るのはたった1万の兵だ。圧倒的な人海戦術で高句麗に攻め入ろうとする隋国を、奇策につぐ奇策で応酬した小野妹子たち。絶望的な戦闘をいかに闘ったのかは読み応え抜群だ。

聖徳太子を、言動のおかしな「狂人」として描き出す、というのも斬新だが、聖徳太子が「狂人」であるからこそ隋国との闘いに挑もうと考え、そしてそのお陰で現代に至るまで日本という国が存続していると思わせられる物語の展開の妙にも感心させられる一冊だ。


たかみち「百万畳ラビリンス」

最後は、マンガを一冊紹介しよう。
礼香と庸子は共に同じゲーム製作会社でゲームのバグ(制作者が想定していない挙動を取ることになるような状況)を探し出す仕事をしている。礼香はありとあらゆる可能性を追求し、制作者さえ予知できない未知の世界に行き着くことを至上の喜びとしている19歳であり、二人は同じ社宅でルームシェアして暮らしている。

そんな二人はある日、自分たちが奇妙な空間の中にいることに気づく。いつの間にこんなところに来てしまったんだろう。普段寝起きしている部屋の間取りなのだが、ドアやふすまを開けるとまったく違う空間へと行き着いてしまい、あらゆる空間が無限回廊のように連続する奇妙な空間だった。

彼女たちは、何故こんな場所に自分たちがいるのか、どうすればここから出られるのか、そもそもこの空間は何なのか、そういうことが一切分からないまま、この異空間の探索を続ける。探索を続ける中で彼女たちは、次第にこの異空間のルールや構造を熟知していくようになる。元の世界に戻れるのか不安がる庸子に対し、『お前はゲーム以外の全てと関係を断ってきたダメ人間』と言われる礼香はこの状況が楽しくって仕方ない。

やがて彼女たちは、自分たちが置かれた状況を理解する。それは、あらゆる想定をなぎ倒すようなとんでもないものだった。果たして彼女たちは、無事帰ることが出来るのか?

とある奇妙な状況から脱出するという、まさにゲームのような物語ではあるのだが、ただそれだけの物語ではない。この作品は、礼香の思考スタイルを通じて、常識から逸脱する大事さみたいなものを伝えてくれる作品だ。

『与えられた選択肢が最善とは限らないもの』

礼香はこの奇妙な世界の中で、様々な実験を繰り返してはルールを掴もうとする。それは、ゲームをする者にとってはある意味当然な行為なのかもしれないが、しかし礼香はそこに留まらない。ゲームのバグを探すことに喜びを見出す彼女は、常に制作者の意図を超えようとする。この奇妙な世界の中でも彼女は、同じ振る舞いをしようとする。

彼女たちが放り込まれた世界は、とある存在が生み出したものだ。その存在には意図があり、その意図に沿ってこの世界は作られている。そこにはその存在が定めたルールがあり、出来ることには限界がある。しかし礼香は、この世界のルールをウキウキしながら精査することによって、その存在が想定していた選択肢を超えられる可能性に気づく。礼香はその発想に基づき、誰もが予想しなかったウルトラCを繰り出すことで、目の前の壁を超える。与えられた選択肢はどれも、何かを諦めなければならないものだったが、その状況を打ち破ることが出来たのも、礼香の常人とは異なる発想力のお陰だ。

社会からはみ出し、ゲームの中でしか活き活きとしていられなかった礼香。社会の中では逸脱してしまうが、こういう周りの価値観に合わせずに自分を貫き通せる人のことが僕は好きだ。状況が特殊すぎるので実感はしにくいが、本書からは、「当たり前」や「常識」からはみ出す勇気と大事さみたいなものを感じることが出来るのだ。

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