【本】「圏外編集者」「ニートの歩き方」「「ぴあ」の時代」

都築響一「圏外編集者」

著者は、フリーの編集者だ。過去一度も、“給料”というものをもらったことがなく、記事の原稿料や著作からの印税で生計を立ててきた。「POPEYE」と「BRUTUS」の編集部にアルバイトとして雇われたことから彼のキャリアは始まり、以後、“編集者”という枠組みに囚われない、いや、大きく外れた人生を歩んできた。

『いまの雑誌の、つまり編集者の質の低下を見ているのが苦しくてたまらないからだ』

これまでにも本書と同様のコンセプトの本、つまり「編集術を都築響一から聞く」というタイプの企画は存在したが、すべて断ってきたという。そんな著者が初めて企画を受け入れたのは、担当編集者の驚異的な粘りもあったが、いまの雑誌のレベル低下への危惧もあったと語る。

『読者層を想定するな、マーケットリサーチは絶対にするな』

このことを、「BRUTUS」時代に編集長から叩きこまれたという。「BRUTUS」も「POPEYE」も、編集会議などなかったそうだ。各自がやりたい企画を考えて、編集長に話をしにいく。すると、何月号に何ページ空けておくから原稿を書いてこい、と言われる。恐らく今では考えられない作り方だろう。雑誌や本が売れない理由を、出版社は様々に言い訳するが、著者は編集者のせいだと断言する。面白いものを作らないからだ、と。

『苛立ちと危機感、このふたつが僕の本作りのモチベーションなのは、最初から現在までずっと変わらない』

著者は、「好き」や「面白そう」という感覚からスタートして、対象を全力で好きになり、その良さを伝えるために何らかの本の形にする。そんな著者の本作りのモチベーションが「苛立ちと危機感」であるというのは、「何故誰もやらないんだ」という気持ちがあるからだ。これを著者は、「専門家の怠慢」と呼ぶ。専門家が見ていない部分に、都築響一にとっての金脈があるのだ。面白いものを作るにはまず自分が面白がるしかない。そういうシンプルな「術」を教えてくれる作品だ。そしてそういう姿勢こそが、自由な生き方を生み出すのだと教えてくれる。

『編集者でいることの数少ない幸せは、出身校も経歴も肩書も年齢も収入もまったく関係ない、好奇心と体力と人間性だけが結果に結びつく、めったにない仕事ということにあるのだから』

pha「ニートの歩き方 お金がなくても楽しくクラスためのインターネット活用法」

著者は、こう呼ばれている。「日本一有名なニート」と。その理由は、著者が“京大卒”であるという点にある。
何故京大を卒業したのにニートとして暮らしているのか?誰もが抱くであろうその疑問に答えるのがこの本だ。

勘違いしないで欲しいのが、この本は決して「ニートを推奨しているわけではない」ということだ。花粉症の薬のようなものだ。花粉症じゃない人は、花粉症の薬を飲む必要はない。でも、花粉症の人にはとても効く薬だ。本書はそういうものだと思って捉えて欲しい。

ではどんな人に向けられた本なのか?それは、「社会にうまく馴染めない人間」である。

『世の中で一般的とされているルールや常識や当たり前は、世の中で多数派とされている人たちに最適化して作られている。少数派がそんなアウェイな土俵で戦っても負けるだけだ。無理して我慢しても意味がないし、向いていない場所からは早めに逃げたほうがいい。レールから外れることで自分と違う人種の人たちにどう思われようが気にすることはない』

僕は昔から、周囲の「当たり前」に違和感を覚える人間だった。だから、本書で様々に綴られている著者の考え方には、もの凄く共感できる。どうして「当たり前」に馴染めないんだろう?という気持ちをずっと抱えていて、ずっとそのことを考え続けてきたので、僕は本書に書かれているような考え方に自分でたどり着いた。ただ、遠回りだったな、とも思う。もっと若い頃に、ここに書かれている価値観を知ることが出来ていたら、もっと違った生き方を選べたのではないかと思う。

それは、「ニートとして生きる」という意味ではない。繰り返すが、本書は「ニートを推奨する本」ではない。「当たり前」という幻想に縛られ、「常識」という檻に閉じ込められた人間を解放する作品だ。だからこの作品は、ニートやニートになりそうな人以外にも読むべき価値を見いだせる本なのだ。

『ニートでない人たちは、ニートが自分たちとまったく違う何かだと思わないで欲しい。それは自分たちと同じ社会の雰囲気から産まれた、自分と共通するものを持った何かなのだから。
逆も同じことが言える。ニートにとっても、働いている人は自分と無関係ではない。それは自分と共通する何かを持った人たちで、1枚のコインの両面みたいなものだ』

生きていくということは、窮屈であることに耐えることだ。皆そうやって自分の人生を納得させるだろう。しかし、考え方を少し変えるだけで、その窮屈さを人生から取り除くことが出来る。そんな可能性を本書は提示してくれるのである。

掛尾良夫「「ぴあ」の時代」

「ぴあ」という雑誌がかつて一つの時代を築いた。

インターネットという武器を手に入れた僕たちは、「ぴあ」という、「メジャーな情報もマイナーな情報も均一に扱い、思想性、批評性は排除する」という編集方針に支えられた雑誌に頼らずとも情報を瞬時に手に入れられるようになった。しかし、インターネットが存在しなかった70年代、80年代において、「ぴあ」は、ピーク時には53万部を発行するに至った、まさに時代を象徴する雑誌だった。

その雑誌は、安アパートの一室で生まれた。中央大学映画研究会に所属していた矢内廣が、同じ映画研究会の仲間、そしてアルバイトをしていたTBSで出会った仲間たちと共に作り上げた。当時、どこでどんな映画が上映されているか、そしてその映画館にどうやって辿り着けばいいのかを網羅的に知るための手段は存在しなかった。もしそんな雑誌が存在すれば自分たちも嬉しい。だったら作ろう!というノリで生み出された。

『72年っていう年がね、絶妙なタイミングだったと思う。もうちょっと前の時代、学生運動真っ盛りだったら、「なんだこんな軟弱な雑誌を作りやがって」なんて相当批判されたはず。でもね、72年はそろそろ、別の価値観というか、「人生の地図」を必要とする、人間の気持ちのゆとりみたいなものが出てきていた』

当時は、マガジンハウスの「平凡パンチ」「anan」「POPEYE」が全盛期だった。それらの雑誌には、『ついて来られない、または来ない者は無視』という排他性と、常にオリジンを海外に求める、という情報発信のスタンスが色濃く表れていた。しかし次第に、『マガジンハウス文化の外側で日常生活を送る、より多くの若者たちが、自分たちと等身大の仲間から発信される独自の文化やサブカルチャーを求めはじめ』るようになっていく。矢内らの思いつきは、そんな時代の空気と見事にマッチし、やがて一つのカルチャーにまで昇華されていくようになる。

彼らは、ただ雑誌を作るだけではなく、「ぴあフィルムフェスティバル(PFF)」の主催や、「チケットぴあ」というチケット流通業まで手掛けるようになる。「ぴあ」という雑誌を起点として、映画を取り巻く一つの文化を生み出すに至ったのだ。「ぴあ」の廃刊を知った、「ぴあ」の文化で育った層が、『それは、廃刊を嘆くとか、悲しむとかいう単純なものではない。「ぴあ」の情報で名画座に通いつめたり、ライブハウスに足繁く通ったこの世代は、ニュースに触れた途端、脳内に冷凍保存されていた記憶が解凍された。そして、「ぴあ」を片手に街中をめぐった日々の記憶が鮮やかに蘇ったに違いない』という想いを抱くのも分かろうというものだ。本書はそんな、「ぴあ」という雑誌が作り出した文化とその熱狂を、創業者らと関わりのあった著者が描きだしていく一冊だ。

『私が目撃してきたのは、矢内廣というひとりの若者と彼に魅せられた仲間たちが、70年代、80年代という昭和の最後の20年間を背景に演じた、エンタテインメント・ノンフィクションにほかならない。彼らが、好きなことのために、一途に、体当たりでぶつかり、素晴らしい出会いを経験に、お祭り騒ぎの日々をすごしたその姿は、傍目にも眩しかった。私は彼らが駆け抜けた青春の軌跡を、多くの人に、特に若い人たちに伝えたいと思う。それは、「起業して上場、大金を稼ぐ」などといった、ケチなサクセス・ストーリーでは決してない』

こんな生き方・働き方に憧れる人は多いだろう。

書店員として働く僕にとっては、「ぴあ」はまた別の意味で凄さを持つ雑誌だ。
書店に雑誌や書籍を届けてくれるのは出版社ではない。出版社から委託を受けた取次という会社である。しかし「ぴあ」は、発行部数が10万部を超えても、取次を通した配本をせず、アルバイトを雇い自分たちで車を運転し、直接書店に配送するやり方を続けた。取次が「ぴあ」の扱いを拒否したためだ。しかし、「ぴあ」の知名度が上がることで、かつて取引を断られた取次から、扱わせて欲しいという話がやってくるまでになる。10万部を取次に頼らず届けた話も凄いし、本書に登場する、「ぴあ」を書店で扱ってもらえるようになるまでの物語も、実に奇跡的で人間的である。

「ぴあ」は月刊誌であり、かつてキオスクでは月刊誌は扱わなかった。また、キオスクには、雑誌を置いて欲しいという出版社が列を成してやってくる、と言われていた。そんな中「ぴあ」は、キオスクの方から置かせて欲しいと言ってきた数少ない雑誌だ。しかも「ぴあ」側は、その申し出を断っている。これまで「ぴあ」を扱ってくれた書店に申し訳ないから、という理由で。キオスクでの販売力よりも、人との関係性を優先したのだ。

「ぴあ」が生み出したカルチャーに浸ったことがない僕には、その雰囲気をイメージすることは出来ない。しかし、書店に身を置く僕には、これらのエピソードの凄まじさは分かる。「ぴあ」という雑誌がこれほどのうねりを生み出したのも、作り手側の、何を大切にすべきかという精神がはっきりしていたからだろう、と思う。

『厳しい仕事であっても、それを仲間と楽しめる会社にすることだった。それは、アルバイト仲間と集まって、自分たちで仕事を作ろうといってはじめたときの気持ちが続いているものであり、冗談の通じ合う仲間たちで経営基盤を作り、1円でも利益を追求するということだけにエネルギーを費やすのではない会社にしたい、ということである』

利益利益利益。現代はお題目のように、そう誰もが言われ続ける時代だ。利益を追い続けなければ存続出来ない。利益こそ最優先課題なのだ。しかし、そんな生き方を拒否し、NPOや地方へのIターンなどに身を投じる若者も現れ始めている。それは、矢内が生み出し、継続させようとした精神に、近いものがあるのではないか。こんな生き方が出来れば理想的だと、多くの人がそう感じるだろう。破天荒で熱狂的な時代に身を投じた者たちの物語を読み、自身の生き方の方向性を考えてみてはいかがだろうか。

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