ドライブの思い出と免許返納日

謙也は、70歳になる2日前に運転免許証の自主返納と同時に運転経歴証明書の交付申請の手続きを警察署に行った。すでに50年間以上運転していたが未練はなかった。あっさり、係の担当者から「今日の今から運転できません」と強く言われた。

思えば、色々なところにドライブに行った。一番に思い出すのは、北陸だ。最初に東京まで出て、関越自動車道、上越自動車道を通って日本海側に行き金沢を目指した。深夜のラブホテルに泊まって、翌日から能登半島を目指してドライブした。行き当たりばったりの旅だ。

ちょうど、会社の夏休みを利用して、三泊四日の旅に出た。能登半島といえば、謙也は学生時代に友達四人と一緒に行ったことがあった。確か、二泊三日だったと思う。朝市で有名な輪島へ向かって、走った。日本三大朝市のひとつとして知られ、その歴史は1000年以上続いている。地元でとれた野菜や海産物、民芸品など200店舗以上が立ち並ぶ朝市を優子に見せるためだ。観光案内で紹介された旅館に直行した。

当時は、能登半島には、コンビニが一軒もなかったので、水や缶コーヒーを買うのが大変だった。半島だけに海岸線や千枚田など様々な珍しい風景に巡り会えた。能登半島の最先端にある、外浦と内浦の接点となる場所で「海から昇る朝日と海に沈む夕日」が見れることで有名な禄剛崎灯台(ろっこうさきとうだい)に行った。

日本海側一帯の守護神で、第10代祟神天皇の時代に創建された須須神社も行った。何やら、宝物殿に保管される「蝉折の笛」は義経のゆかりの品だというが記憶にない。
九十九湾や見附島などの観光地を見ながらドライブをした。定かな記憶にないが、民宿のような宿で一泊した。

まだ、道の駅もなく、とにかく、普通の飲み物などの買い物に難儀した覚えがある。
前田利家が奥能登方面からの防御陣地に転用するため各宗派寺院を配置したのがはじまりで16の寺が残っている七尾などを通って、和倉温泉に着いた。

開湯以来約1200年かわらずに、地下の花崗岩に含まれる水晶をくぐりぬけ、 とうとうと湧きでる「和倉温泉総湯」があった。公共の温泉だから、銭湯価格で入れる旅人にとっては、天国のような施設だった。「加賀屋の温泉に入ったと思えば得したような気分になれる」と謙也は、ドライブの疲れも吹っ飛んだ笑顔で優子に言った。「今日は最終日だから、金沢に泊まろう」と金沢は、北陸の小京都と言われる街だ。

金沢の観光案内で片町の旅館が取れた。先ずは、市内見学だが、それほど時間がなく、飲み屋を探すのが先決のように思えた。ちょっと小粋な西洋風の店に行くことにした。ワインを頼み、洋風のつまみを食べながら、「本当に楽しかったわ。一生の思い出になりそう」と妻の優子に言われ、照れている謙也だが、「明日は、高山に寄ってから帰ろう」と決めた。

東海北陸自動車道で、高山に行き、観光を済ませ、中高高速まで行った。中央高速までの間に「下呂温泉」があった。「ここで温泉に入って行こう」と気ままな旅の最後を温泉に浸かって帰ることにした。

いよいよ、高速道路に入ったが、大雨で豪雨に近かった。深夜の高速は、トラックが猛スピードで走っていた。ワイパーを高速で回しても、視界は悪くなるだけで、恐怖を感じるほどだった。「二度と車に乗りたくない」と謙也は心の中で叫んだほどだった。

この旅は、まだ40代の頃だからできた神業であった。振り返っても、怖い思いを最終日の中央高速道路で味わった。長かったドライブだが、様々な思いをして、走破した。途中、優子も運転をしたが、大半を謙也が運転した。

アメリカ横断とかシルクロード横断など考えた時期もあったが、電車と飛行機とバスがあれば、どこにでも行ける。車を持っている頃は、毎年2万から3万キロを走破していた。どれだけガソリンを使い、高速代、駐車場代を使ったか分からないが、それを浪費と言うのは早計だ。車の利便性には、意味がある。でも、止めた。一生乗らないと決めた日。清々しく、爽やかな日のスタートである。新しい時代の幕開けだと痛感する謙也だった。「良かったね。新しい時代の幕開けかも」と優子が嬉しそうにはげました。

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