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猫の舌


男は、背中が痒くなった。痒くて痒くて仕方ない。孫の手も、無い。適当な棒もない。
そうだ、猫の舌がある。

あのザラザラした舌で舐めて貰ったら、さぞかし気持ちいいに決まっている。まるで、落語の世界だ。

さっそく、ちゃぶ台の上で寝ていた猫を抱き抱えてみた。猫は何が起こったのかと、逃げ出す。自尊心と警戒心の塊の様な生き物だ。おいそれと、従うはずもなく、心理戦に突入した。

捕まるまいとする猫、なんとしても捕まえたい男。そんな時、猫の大好物を思い出した。冷蔵庫に保管されている削り節だ。

それを痒い背中に置けば、猫が舐める。あのザラザラとした舌で舐める。ところが、いざ背中に乗せようとすると、手が思うように届かない。ドングを探したが無い。

ガムテープを張ってその上に削り節を乗せる。それは、猫の舌の無駄使いになると気付いた。

そもそも、猫の舌を使おうとする時から、愚かな案だった。削り節と煮干しを煮て、その汁をタオルに染み込ませれば、いけると決めた。そうこうしているうちに、痒みが消えてしまった。

一人では拉致が開かないと、女友達を呼んでいた。男は、アパレルの直営店の店長だ。もう結婚しないまま四十になってしまった。女友達の朱美は、お店のスタッフだった。服飾専門学校を出て、デザイナーを夢見て就職したが、先ずは販売員からと言われ、泣く泣く販売の仕事をやっていた。

どの会社も専門知識のあるデザイナー志望の女子を騙すように人気の無い販売員にさせる。ほとんど、デザイナーになれないまま、三十になる。

そんな時、キャバクラのスカウトにあった。

キャバクラは、ファション関連の店頭にいる派手好きな綺麗な女の子を簡単にスカウトする。写真と違うなど応募は、偽装があるが、店頭で、そのまま実物がいる。手間がなく、お金が無い販売員は、餌食になる。

その餌食になったのが、朱美だ。気仙沼の漁師の娘だから、気っ風がいい。お金持ちのお客は、そんな朱美の威勢の良さに従順に従う。多少のイザコザもあるが、小さな事を気にしない朱美は、キャバクラのNo2に躍り出た。

最低限の容姿は必要だ。朱美は今でもデザイナーを目指した身だ。男もホステスにさせてしまった責任を感じている。

「ところで、なんのよう」
本題にいきなり入って来た。
「いや、べつに会いたかっただけだよ」
まさか、背中を掻いてもらうために呼んだとは、言えない。
「ところで、彼氏出来たの」
ファッション関係者は、オネエ言葉に限りなく近い喋り方をする。
「ウーン、出来たような出来てないような」
IT関係の社長に口説かれている事、ベンツを一台貰った事、家をくれる客がいる事など、武勇伝に近い話が際限なく続いた。

シャンパンの泡のようなおとぎ話に聞こえたが、現実は、女を手に入れたい男たちの戦場のようだ。キャバクラは、欲望の源泉だと男は思った。思えば、朱美も三十路を超えた熟女だった。猫の舌で、苦労している場合じゃない。

「朱美、幸せか?」
無言のまま、時間がたっていく。
今日は久々の休みだと朱美は言っていた。
幸せの向こう側が見えないまま、朱美は猫を見ていた。
猫が、朱美の膝の上に乗って、そのまま寝てしまった。

「こんな普通の生活がしたい」と朱美は思った。


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