書き出し自選・義ん母の5作品 パート2(義ん母)

くのゐっちゃんよりバトンをいただきました義ん母です。
書き出し小説に投稿を始めたのは無職だった頃。ちょうど「無職」がテーマだった回に投稿したのがきっかけであります。以来おおよそ150回まで参加させていただきました。私にとって書き出し小説は青春そのものです。

今回、二回目の自選を書くにあたり過去の書き出し用ファイルを整理したところ、500ほどの「書き出し」が眠っておりました。私だけでもこの量です。投稿者全員のものを合算したら果たして『書き出し小説』はこれまでどれだけの投稿、そして「同意する」を容れてきたのでしょう。また、私たちは一体何に同意してきたのでしょう。今となっては知るすべもありません。(正確にはちゃんとサイトの文章を読めばわかります)。少なくともこの「同意」なくして、共犯文学こと書き出し小説は始まらず、天久先生や他の書き出し作家の皆さんと出会うことは出来なかったはずです。
こんなことを考えていたら、思い出が心象にたゆたい、指先には感傷(エモ)が灯り、一度しかお会いしていない、くのゐちさん冒頭でくのゐっちゃんと呼ぶ始末です。さて前置き好きとしてはもう少し長々と踏ん張りたいところですが、ゐっちーのご厚意に真摯に応えるべく、早速紹介に移りたいと思います。

今回の自選の基準は「採用していただいてとくに嬉しかったもの」、
そしてもう一つ「ちょっと自立しているもの」で設定してみました。
「ちょっと自立しているもの」とは実際にこの書き出しで小説を書いてみようと試み、挫折し、珪藻土マットの上に全裸で寝転がって乾涸びるのを待つ「逆入水」を企て、またも前置きが長くなってしまう、そんな作品のことです。

発射した三匹の鼠のうち、二匹はしっかり酒樽に食い込み、もう一匹は「ロマンス」の語源となった。(第20回自由部門)

採用当時、多くの方よりお褒めの言葉を賜りました。思い出深いものです。
「発射された」ではなく「発射した」ということは、文の外に鼠を発射した人物が想定されております。もしこれが実際の小説の書き出しなら語り手は鼠を発射した人物となるでしょう。ところが「鼠がロマンスの語源になるまで」を見届けた時点で語り手の口調はどこか満足げ。この先、胸踊る展開が待ち受けていようと、それはもうこの小説の余生に過ぎないのかもしれません。また、むやみに鼠を発射してはいけないのかもしれません。付け入る隙もないので、気を取り直して次の書き出しに参ります。


窓にへばりついた甥の白い腹を、硝子越しにコツコツと擽れば、ぺらり剥がれて雪に落ちた。「入れてあげればいいのに。」後ろで妻が愚痴と正論を同時に吐く。(第39回自由部門)


こちらも「書き出し」として世に放り出されておきながら、その実、手触りは何とも強固で、生け簀のように閉じた世界として立体化しています。「入れてあげればいいのに。」という妻の甥を歓迎するこの言葉も「愚痴と正論を同時に吐く」という一文でまとめられてしまえば「歓迎」の態度とは裏腹に文章自体が排他性を帯びてきます。まだ客がいるにも関わらず椅子をひっくり返して片付け始める居酒屋に迷い込んだ気分です。こうなっては磯丸水産に行くほかありません。ここでいう磯丸水産とは次の書き出しのことです。
(何故なら磯丸水産の椅子は未来永劫、片付けられることはないからです)


店員の目の前でレシートを捨てられる奴等が信じてきたものを壊すため私ハ創ラレタ。(第49回自由部門)

「私」は「創ラレタ」。
もしこれが「造ラレタ」なら「私」はアンドロイドになり、
平仮名で「創られた」ならば「私」は神によって生み出された何者かとなるでしょう。この書き出しにおける「私」は「創ラレタ」ということなのでその中間存在。アンドロイドの精確さと神の使命を全うする遂行力の持ち主です。
完全無欠である彼がこれから破壊するものは「店員の目の前でレシートを捨てられる奴等が信じてきたもの」と対象は曖昧模糊。
これは多少、展開が望めそうです。コンビニのレジ横、月餅のすぐ近くに陣取った「私」が監視をし続け、レシートを捨てるような奴がいればすぐさま「信じてきたもの」を訊き出し、破壊に向かう…。わかりませんが、もし、仮に、このような企画書を後輩がテレ東の日曜ビッグバラエティ枠に向けに書いてきたら、迷わずその後輩を連れ、磯丸水産へと向かうでしょう。シャリシャリの半解凍マグロをつつきながら彼が信じてきたものを全力で肯定してあげなくてはなりません。

どの麺も濡れているが、小麦の時は乾いていた。(第41回自由部門)

「逆再生された諸行無常」、そう天久先生は評してくださいました。
確かにわざわざ世界からもぎ取ってこなくても良い事実です。
そこに詩情が与すればそれは自由律俳句という文芸へと昇華されるのですが、この書き出しはやや趣が異なります。知らない人からすれ違いざま「いいからもらっとけ」と汚い小石を渡されたような、純度の高い違和感を喚起する装置となっています。もしここから物語を紡げば違和感の純度は失われ、余計な意味合いが付与されてしまいます。小麦は勝手に乾いているし、麺は勝手に濡れているし、新しい珪藻土マットは勝手に水分を吸い取るし、私は勝手に最後の自選を紹介するのです。

その行商人は藤色に染まった妖しいお茶を呑み終わるとワカサギ釣りから帰って来た孫を結核だと決めつけた。(第23回自由部門)

「行商人」「藤色」「妖しいお茶」「ワカサギ釣り」「孫」「結核」。
一行の文章が積載できる単語の量を超え、なんだか積荷の鉄鋼がはみ出しているトラックのような危うさを湛えた文章です。これは「ちょっとと自立しているもの」の基準でいえばギリギリ。句点がない、一息で読むことを前提に放り出されているからこそ、なんとか表面張力で自立できております。(私見ではありますが)文章内で表面張力を発生させるには最初と最後の単語の強度が肝心であり、この書き出しでいえば「行商人」と「結核」がそれに該当します。書き出しの看板を掲げながら、続く文章を想定していない頑固な態度はそのまま行商人の態度と相似をなしているのかもしれません。

以上、私の自選パート2となります。
ご査収くださいませ。
書き出し小説に投稿させていただいたものを火種に別の作品に膨らませたものものも存在します。実際、拙著『ずっと喪』の表題作じたい、今読み返せば以下の投稿作に端を発したものであることは明らかです。

喪服に袖を通せば、卓上のカップに喪汁が注がれる。珈琲のように黒く、珈琲のように、苦い。(第41回自由部門)

今回、あえて「ちょっと自立しているもの」を基準に設定したのは「書き出し小説」という公園がどれほど自由だったか改めて感じたかったからかもしれません。火遊び、全裸、ちょっとしたテロル、網戸、本当に楽しく遊ばせていただきました。夜な夜な「同意する」をクリックしてきて本当に良かったと思います。最後に、私たちがこれまで何に同意してきたのか確認してこの文章を締めたいと存じます。
なんだか「投稿作品の著作権について」と書かれています。なんでしょうか。この胸のざわめき。もしかしたら投稿作を膨らました作品を世に出すことは誤りだったのでは。急に口の中が渇いてきました。手足が震えてきます。恐怖のせいでしょうか。いいえ、きっと、脱水症状です。珪藻土マットの上で逆入水の真っ最中なのです。乾涸びる前に、バトンを繋ぎます。

お次は「パ紋」でお馴染み。グラフィック・デザイナーであり書き出し作家の原田専門家さんにお願いしたいと思います。

最後までお読みいただきまして誠にありがとうございました。

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