文学+WEB版
干さオレ~二子玉死闘篇~(第一回)
見出し画像

干さオレ~二子玉死闘篇~(第一回)

文学+WEB版

文芸時評7月 荒木優太

 『ポケットモンスター スカーレット』を買いたいので、もう一年やることにしました。てへぺろ。
 ところで、内田樹『レヴィナスの時間論』(新教出版社)がとうとう刊行された。フランスの思想家であるエマニュエル・レヴィナスを師と仰ぐ内田には、先行して『レヴィナスと愛の現象学』(二〇〇一年)と『他者と死者』(二〇〇四年)なるレヴィナス論があり、最後の時間論によるレヴィナス三部作の完結が前々から予告されていたわけだが、ついにそれが成ったというわけだ。
 本書は『時間と他者』というレヴィナスのとても薄い講演録を緻密に読んでいく註解的一冊で、正直にいえば、著者の主張にある程度親しみをもっている読者ならばいつかどこかで見たマンネリズムを感じるが――ただし、時間意識には個々人のあいだで差があり、卓越した時間意識は成熟の問題と関わっており、ナチスの蛮行は未成熟な時間意識が引き起こしたのだ、とする解釈をレヴィナスから引っ張ってくる二七六頁周辺の議論には、その成否は別に、新鮮さを覚えた――、反復は却って個人的な感傷とともに時の経過の不思議にひたらせる。
 ブログ「内田樹の研究室」にはレヴィナスのことを「ㇾビ茄子」と表記する「イカフライ」という名の荒らしがいて、いつもコメント欄で内田ファンと喧嘩していたことなどもうみんな忘れているかもしれない。いや、そんなことはどうでもいい。それ以上に、内田樹とはフェミニズムの歴史的使命の終焉を宣言し、『「おじさん」的思考』(二〇〇二年)を代表に「おじさん」という概念的人物の復興を企図した書き手であった。フェミニズム花盛りの現在からみれば決定的に前時代的である。いまや『右傾化・女性蔑視・差別の日本の「おじさん」政治』なんていう書名が流布される始末だ。純粋悪のアーキタイプ。リュス・イリガライのフェミニズム的レヴィナス批判に再批判を加えた『愛の現象学』なども、現代読者にとってはひどい反動にうつるかもしれない。
 確かに内田は判断ミスをしている。ついでに書き留めておけば、いくら安倍政権にNOを言うためとはいえ宿敵・上野千鶴子と呉越同舟した二〇一五年の反安保運動にだって、内田さんが大事にしているものにとってそれって避けられないことですか、と問いたい気分にもなる。が、とまれ、これら一連をもって、内田樹の歴史的使命の終焉を宣言する者があれば評者は断乎として反対したい。フェミニズムも見事復活したのだ。内田樹が再発見される日もきっとくる。それについての評価はまちまちだろうが、いくら価値観をアップデートしようとも決して現在化しえないものと共に我々は思考しているという一事を忘れるべきではない。その自覚なきところに粘り腰の思想戦はありえない。
 なお、内田の盟友といってもいいだろう小田嶋隆『東京四次元紀行』(イースト・プレス)も読んだ。東京二三区を舞台にした二三話+αで構成された著者初の小説とのこと。一部登場人物が重複するので、最後に無関係に見えた人物同士が連絡し合って一つの星座でもつくるのかしらん、と警戒しながら読み進めたが、どうやらそういうことではなく、一話読み切りのアンソロジー的な読み物に留まるようだ。面白いかと問われれば別に面白くはないが、楽しそうに書いているのはよい。小説なぞ所詮は低俗な表現形式なのだから気楽に書けばいいし、それと同じくらい気楽にいいだの悪いだの評せばいい。全体的に大した話ではないし、大した話になりようがないのがいいところじゃないか。その上でいえば、綿野恵太みたく評者も早いとこ小田嶋からディスられたいものである。
 レヴィナスは未来をまったき他なるものとして捉えた。昨日太陽が東から昇ったからといって明日も昇るとは限らない。その予見不可能性のなかで人はどう振舞うべきか。今月は未来の時制を考えさせる創作物が目立つ。『代わりに読む人』〇号の特集は「準備」。編者の友田とんの縁故によるのか、この種の雑誌にしては理数系の寄稿者が特徴的だが、なかでもオルタナ旧市街『完璧な想像(ポートオーソリティ・バスターミナルで起こったこと)』は、転ばぬ先の杖ならぬ、転ばぬ先の軍手やヘルメットや熊除けの鈴等々に広がる準備過剰な想像力の挫折をリー・リーという架空の師匠に仮託しながら考える点で直截的だ。準備的想像力は3・11を予想できずに終わりを迎えるが、その過程のなかで得た想像的な往還可能性は「私」の自信へと結ばれる。未来を単なる絶対他者と諦念しないのには好感をもつ。他方、オルタナ作に限らず雑誌全体の印象として、すべては準備できていたのだという瘦せ我慢の精神をもっと扱ってもよかったのではとの想いも。かつて「想定の範囲内」という言葉が流行り、いうまでもなく嘘八百の強がりにすぎないが、逆にいえばそこにこそ虚構の腕の見せどころがある。インテリ連中は瘦せ我慢に運命愛という高級な名を与えている。
 作者急死によって中断されていた三浦建太郎『ベルセルク』の連載が、友人でその遺志を受け取った森恒二監修のもと再開されるそうだ。『文學界』掲載の上田岳弘『ICO』杉本裕孝『グッバイ、メルティ』は継承を共通の主題としているため連続的に論じることができる。上田作は、Tik Tokのアカウント「ICO」の収益で大学に通う女子大生が、そのアカウントを友人に譲り渡そうと計画する話。動画では顔を出しておらず胸部を強調するだけで事足りるので問題なし。白眉は、ウーバーイーツを惰性で頼んで食べきれない懶惰な消費行動への後ろめたさから、かつての恋人の影響で内心見下してもいるウーバーイーツ配達員に八つ当たりするものの、「昨日の自分に比べて、この辺の道に詳しいし、空を見ればどう天気が変わっていくのかわかる。筋肉も随分ついた。きっと配達員をやめても俺は生きていける」と反駁されるところ。ICOの引き継ぎを成功させることで配達員と同じ境地を目指せると彼女は考えるが、肝心なのは反資本主義の理念ではなく、引き継ぎという未来への取り組みそのものに宿る自律性回復のほうだ。きっとICOをやめても生きていける、と思えること。偶像の抹殺ではなく譲渡によってイニシエーションが遂行される点に、ひろゆき的現代を感じる。Tik Tokerとウーバーイーツ配達員とを資本主義的システムの同じ「末端」として並置する手つきが本当に成功しているかどうかは依然議論の余地があるとは思うが。
 杉本作は、メルティという物言わぬ子供向け人気キャラクターのデザイナーが、突如、そのメルティを殺そうと画策する話。幼い頃からメルティに親しんで育ち、同じ会社に就職したデザイナーの甥の視点からその謎が解き明かされていく。ネタバレしておけば、メルティのモデルは発達障害のきらいがあった若くして死んだ叔父の弟で、メディア進出にともなってその原形がゆがんでいくことに罪悪感を覚えたのが一連の動機である。設定は風変りでそそられるし、ことの始末を託された甥が逡巡しながらもファンとともに成長するキャラクター的生命を尊重する英断も示唆に富む。ICOとコラボしてほしい。ただ、上田作と比べるとどうしても小言をいいたくなる。説明過多に見えるいくつかの箇所も気になるが、それ以上に登場人物がそろいもそろって善人面しているのは果たしてどうなのか。感じやすくて、なのに他人への気遣いは忘れず、弱さを見せても決して暴力的にはならない聞き分けのよさ。善人の箱庭か。唯一悪漢役を担い得る、メルティを売れ線の方向で押し出した会社の社長も、叔父の葬式では「経営者としてこれまでわたしのくだした判断にはひとつも間違いはなかったと信じている。そのことに後悔はない」云々の漢気をみせて、決して不快にならないのが不快だ。これぐらいの長さ(二段組八〇頁超え)でそろいもそろってが延々つづくとどうしても起伏を欠いた平坦を感じてしまう。たとえば、アメリカのフェミニストのあいだではキティちゃんの口のバッテンを女性言論抑圧の象徴と捉える向きがあるようだが、しばしば自分勝手に感情移入することでキャラクターへの怒りや憎悪を高めていく人々にどう向き合えばいいのかといった難所を介してもよかったのではないか。
 あとは短評で御免。豊かな退屈時間を味わわせることで定評のある(褒めてるよ!)古川真人が初の長編『ギフトライフ』『新潮』に発表。どんだけの停滞が待ってるんだろうとわくわくしながら捲ったが、近未来社会の新自由主義やら優生思想やら、ストレートに問題提起的でそこそこに面白そうに見せており、なんだか肩透かしした。ただ、ああいう作風の作家さんがこういうものに挑戦するのはよいことだと思う。いい経験になったね。尾久守侑『天気予報士エミリ』(群像)は、綿谷りさに似たようなのなかったっけと思わなくもなかったが、一貫して世界を舐め腐っていて素晴らしい。「違います。それは足の付け根のところががくがくしているだけです」で爆笑。榎本櫻湖「ある離人感、シスジェンダー・ヘテロセクシュアル男性優位社会の延命装置としての戦争とは無縁の場所で……、」(現代思想五月号)は、句点を使わずにエッセイ的論考を完遂する実験を行っているが、それがどういう意味をもつのかよく分からなかった。切って区別化できる状態こそシスジェンダー的ということ? 漫画家の西原理恵子がその毒親ぶりを娘の鴨志田ひよに告発され、SNSでは関連したフィクション作品が人々の話頭に上っている。個人的には真っ先に西加奈子『ママと戦う』(文藝春号)を思い出した。現実は上手くいかないものだと嘆息すると同時に、異なる人称を自由に行き来できる虚構のずるさの観点から改めて読み直してみたい意欲をもった。なお、西は『すばる』にて乳房を切除したグラビアアイドルを扱った短編『あらわ』を発表している。
 さーて、また一年間かんばるぞ。そういや、岸政彦は元気でやってるのか? たまにはRTぐらいしろよな! わをーん(←時の咆哮)。

▶荒木優太。在野研究者。1987年生まれ。著書に『これからのエリック・ホッファーのために』(東京書籍)、『貧しい出版者』(フィルムアート社)、『仮説的偶然文学論』(月曜社)など。昨年11月に『転んでもいい主義のあゆみ―日本のプラグマティズム入門』(フィルムアート社)を刊行。

【編集部注】Twitterで鳥澤光氏から「キティちゃんには口がないはずなのでくち×はミッフィーちゃんでしょうか。」というご指摘があり、 それに荒木氏が「その通りです」と受けて、「正確には「キティちゃんに口がないことを女性言論抑圧の象徴と」と表記すべきでした。キャラはキティちゃんだったはずなので」という回答があった。(6月17日)

*トップ画像はacworks「リレー9」、『photoAC』による。

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!
文学+WEB版
文芸批評と文学研究の雑誌『文学+』 運営「凡庸の会」、02号刊行中。 WEB版は中沢忠之が運営。 連絡はbonyou.org@gmail.com 雑誌の通販はTwitterのプロフィール欄からお願いします。 https://twitter.com/bungakuplus