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シュルレアリスムの手帖 第二回

オートマティスムへの戸惑い:後編 袴田渥美

古賀春江《鳥籠》、1929年。『『シュルレアリスム宣言』一〇〇年 シュルレアリスムと日本』カタログ、速水豊・他編、京都、青幻舎、2024年、p. 33より。

1. どこからどこへ?――日本のシュルレアリスムについて

 日本のシュルレアリスムとはいったいどのようなもので、どこからどこへいったのか、という問いにひとつきりの答えを与えようとするのは、きっとバカげたことであるのにちがいない。昨年末から今年の6月末にかけて開催された「『シュルレアリスム宣言』100年 シュルレアリスムと日本」展に出かけた誰かや、あるいはそのカタログのページを繰った誰かなら、こうした直観にもいくらかは同意してくれるのではないだろうか。
 簡単に問うてみよう。たとえば代表的な名前として、古賀春江や福沢一郎、それから北脇昇や岡本太郎のタブローにおいて変わらずおなじものを見いだすことは可能だろうか。さらにつづけて、「シュルレアリスムと日本」展に並べられていた数々のタブローを列挙していったとして、その集合のあいだにまさしくおなじであると言いうる形式や方法を見いだすことはできるだろうか。もちろん、それらに共通する精神的ななにかを言い当ててみせることはいつでも、誰にでも許されている。しかしそんなことは結局、どうとでも言いうることだという印象を拭いさることなどできはしない。
 そもそも日本という空間的な限定を外しても、このシュルレアリスムという運動について考えるときに、エルンストのタブローとダリのそれは似ていないという問題は避けがたい。しかしそれにしても、日本のシュルレアリスムといったんは呼ぶほかない領域に含まれてしまった作家や画家たちの、多様さと言うことにも違和感のあるバラバラさは、フランス本国のそれともやはり異なる。パリにはやはりブルトンがいて、グループの作家や画家たちの活動は善かれ悪しかれ、どうしても彼との遠近によって規定されていったようにも見えるのに対して、日本には運動の特権的な中心となるような人物もグループもついに現れなかったことをその要因として考えることもできよう。その結果として世代も地域もさまざまな人々が、思い思いにシュルレアリスムなるものを実践していったのだとするなら、たしかにこうした事態も理解できるように思える。だがそれでも、日本のシュルレアリスムというこの領域において、どうして誰もただひとりの宣教師とその教団たりえなかったのかという問いは残るのだし、この問いにはいまだに問うべき価値があるはずだ。

福沢一郎《他人の恋》、1930年。『『シュルレアリスム宣言』一〇〇年 シュルレアリスムと日本』カタログ、前掲書、p. 36より。

 こうした問いに向きあうとき、おそらくもっとも単純かつ容易な回答は、日本のシュルレアリスムはついにシュルレアリスムの真に根本的な原理を受容することがなかったのだ、というものだろう。そもそも個々の作家や画家たちの活動を求心的に制御しうる教義の不在が、それぞれに方向の定まらない実践だけがいたるところに散在するような事態をまねいたのだと考えることは、いかにもたやすい。 

 二十世紀初頭のフランスに起源をもつ超現実主義シュールレアリスムは、間もなく海を渡って日本の現代詩や現代絵画の主張と表現に変質をもたらすことになる。だが、これが、詩の思想よりは表現形式(様式)を主と考える変革者たちに迎えられ、やがて社会が満州事変(一九三一・昭6)を始まりとする戦時下の体制に組み込まれていった日本では、第一次世界大戦終了(一九一八)後に、人間性の恢復・奪還のため、合理主義精神の破綻を露呈させている腐敗した社会に鋭く挑戦的に対峙するという、このヨーロッパ生まれの主義の運動面がもっていた特徴は薄らぐことになってしまう(1)。

 たとえば澤正宏のこうした見解には、日本の芸術家たちは真のシュルレアリスムを受けとめることがなかったのだという見方が抜きがたく示されているはずだ。日本の近代詩史に続々と登場した数々の流派とは所詮、「「いわゆる」超現実主義」であり、「いわゆる」モダニズムであり、「いわゆる」象徴主義」であったにすぎないとする60年前の大岡信の見解(2)のあとにつづくようにして、こうした見方はいまだに一定の説得力をもちつづけているのかもしれない。だが、ではここで言う真のシュルレアリスムとはなにか、という問いに、誰か答えることはできるだろうか。もちろん、「人間性の恢復・奪還のため、合理主義精神の破綻を露呈させている腐敗した社会に鋭く挑戦的に対峙する」という特性記述が、ある特定の対象についてのそれとしてあまりに漠然としすぎていることは言うまでもない。

(1) 澤正宏「超現実主義シュールレアリスムの水脈」、『詩の成り立つところ――日本の近代詩、現代詩への接近――』所収、東京、翰林書房、2001年、p. 148.
(2) 大岡信「割れない卵――近代詩に関するいくつかの問題」、『超現実と抒情――昭和十年代の詩精神』所収、東京、晶文社、1965年、p. 7.

 私たちは前回、『シュルレアリスム宣言』にいたるまでの経緯をたどることで、シュルレアリスムのはじまりを告げたこの宣言のいささか奇妙なステータスを確認したところだった。先駆者よりも前に進むことも、先駆者に立ち戻ることもないこの宣言でブルトンは、ただ声が聴こえてしまったのだと言う。「窓でふたつに切られた男がいるIl y a un homme coupé en deux par la fenêtre(3)」という声が。そうして私たちは驚くべき書物、『磁場』を書いた。だからシュルレアリスムの定義とは「思考の現実の働きfonctionnement réel de la pensée」を写しとること、すなわち「思考の書き取りDictée de la pensée」なのだと、彼はそう言った(4)。
 もういちど、すこしだけ問いを書き換えて問いなおしてみよう。こうした第一宣言の報告を読んで、受容するべき、あるいは理解するべきシュルレアリスムの真の・・根本的な・・・・原理とはいったい何だろうか? もし自身が詩人であったとしてすくなくとも私には、魅力的な提案だから、では自分もやってみよう、と考えなしな模倣を試みようとするか、あるいはそんなことを真顔で提案するブルトンにひどく戸惑ってしまう以外のリアクションを示すことはできそうもないし、何らかの芸術制作を導くひとまとまりの理論や原理をそこに読み取ってしまうことは無理のある嘘だとさえ思える。あまつさえこの宣言が、ヴァシェやツァラやアポリネールやフロイトのディスクールに取り巻かれた第一次大戦後のパリで書かれたのだと知るなら、なおさらありうるリアクションは困惑のほうへと傾くにちがいない。 

(3) André Breton, Manifeste du surréalisme, dans Œuvres complètes. t. I, Paris, Gallimard, coll. « Bibliothèque de la Pléiade », 1988, p. 325. 邦訳はアンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』、巖谷國士訳、東京、岩波書店、岩波文庫、1992年、p. 38. なお本稿の第一宣言の訳文は、巖谷國士による訳文を参照しつつ、適宜変更を加えている。
(4) André Breton, ibid., p. 328. 邦訳は巖谷國士訳、同書、p. 46.

 では、こんなふうに考えてみてはどうだろう。日本のシュルレアリスムという領域において、あまりに個々別々な実践が乱れ咲いていったことには、そもそもブルトンの最初の宣言自体がいっそはた迷惑なほどに謎めいていて、頼りになる一定の方向づけ――たとえば作品や言動の正誤の判定を可能にする教義のようなもの――など与えてはくれなかったことがおおきな要因として作用しているのだと。だが幸運にも不幸にもそうしたシュルレアリスムの謎に魅了されてしまった人々は、ブルトンたちの語ることに困惑しながらも、どうにかそれぞれに自分たちなりの実践を導き出していったのではなかったか。こう考えてみるほうが、日本のシュルレアリスムという対象について語るにあたっていくぶんか有益かつ有効であるように思える。
 だから日本のシュルレアリスムについてよりよく考えるためには、あくまでも具体的などこからどこへ、という追跡の次元を離れてはならないにちがいない。だがそのどこからどこへという問いには、やはりすべてのケースにひとつきりの回答が与えられることはない。古賀春江も福沢一郎も北脇昇も岡本太郎も、おなじシュルレアリスムという名をした謎によって、それぞれに違う場所から出発して、違う場所へ到着したのだと、私たちはまず考えてみることにしよう。こうした複数の軌跡がそのなかに描きだされていく空間のはじまり、西脇順三郎と彼の友人たちのケースは、私たちのこうした作業仮説に最初の根拠を与えてくれるだろう。

2. シュルレアリスムと『超現実主義詩論』

 1925年、ということはブルトンの第一宣言の翌年、日本へのシュルレアリスムの流入がはじまる。この年に創刊された『文芸耽美』に上田保、上田敏雄、北園克衛らの作品とともに、ブルトン、アラゴン、エリュアールの訳詩が掲載されるのだが、同年11月には、オックスフォード大学に留学していた西脇順三郎が帰国する。翌26年4月に慶応義塾大学で英文学教授に就任した西脇の周囲に、瀧口修造、上田敏雄、上田保、佐藤朔、三浦孝之助、中村喜久夫ら学生たちが集って同時代のヨーロッパにおけるモダニスムを受容する文学グループを形成し、このグループは西脇アカデミー、あるいは西脇シューレと呼ばれることになる。『文芸耽美』と西脇シューレに集った人々は、翌27年には活動の場となるそれぞれの詩誌を結実していく。27年11月に創刊された『薔薇・魔術・学説』には北園克衛、上田敏雄、上田保、冨士原清一らが、同年12月に刊行された『馥郁タル火夫ヨ』には西脇順三郎、瀧口修造、上田保、佐藤朔、三浦孝之助、中村喜久夫らが参加しており、これら二誌のグループは翌28年11月に創刊された『衣裳の太陽』において合流する。29年7月に終刊する『衣裳の太陽』の継承として、30年1月に瀧口修造の呼びかけで第一号のみを発行した『LE SURRÉALISME INTERNATIONAL』もまた重要だが、これらの詩誌に集った人々は、28年9月に創刊され、その後、春山行夫によって31年まで主導された『詩と詩論』の各号に参加していくことになる(5)。

『馥郁タル火夫ヨ』表紙。復刻版『馥郁タル火夫ヨ』、東京、田村書店、1987年より。

(5) このあたりの時系列については、千葉宣一「『詩と詩論』とシュールレアリスム――受容状況を中心に――」、『日本近代文学』、no 7、1967年、p. 67-83や、中野嘉一『前衛詩運動史の研究――モダニズム詩の系譜』、東京、沖積社、2003年、それから澤正宏・和田博文編『日本のシュールレアリスム』、京都、世界思想社、1995年などを参照した。

 こうした昭和最初期の詩誌におけるシュルレアリスム受容の端緒にして中心となった西脇順三郎は、1929年、26年から28年にかけて――上述した一群の詩誌が現われては消えていったまさにその時期にかけて――『三田文学』や『詩と詩論』に掲載した詩論を集めた一冊の書物、『超現実主義詩論』を厚生閣書店から刊行する。まさに「シュルレアリスムsurréalisme」の訳語である「超現実主義」をタイトルに冠したこの著作は、日本のシュルレアリスムの展開にとり記念碑的な著作としてしばしば取り上げられる。たとえば、前節で触れた「『シュルレアリスム宣言』100年 シュルレアリスムと日本」展のカタログにもその書影は掲載されているし、2019年末から2020年4月にかけてポーラ美術館で開催された「シュルレアリスムと絵画 ダリ、エルンストと日本の「シュール」」展でも欠くことのできない資料として展示されている。
 だがこの西脇の仕事は、いつもこうした展示ではどこか居心地のよくない仕方で紹介される。19年の「ダリ、エルンストと日本の「シュール」」展のカタログには、『超現実主義詩論』は「16-17世紀からはじまる自然主義を紹介する内容であり、シュルレアリスムを紹介するものではありません(6)」とあり、また開催されたばかりの「シュルレアリスムと日本」展のカタログには、『超現実主義詩論』の著者、西脇は「詩論、詩作ともにシュルレアリスムを自身の主義とはしなかったものの、その受容において重要な役割を果たした(7)」とある。日本のシュルレアリスムと題した展覧会を組むなら、『超現実主義詩論』という書物はかならず展示されなければならないが、しかしこれはシュルレアリスムを紹介した本ではないのだ、西脇順三郎はシュルレアリストではなかった、と但し書きを付すことも忘れてはならない……、この書物はいつもそんなふうにしてガラスケースに並べられる。研究者による歴史記述においても事情は変わらない。95年の論集『日本のシュールレアリスム』は、この分野の研究において参照の不可欠な仕事だが、そこにはこうある。

 西脇がなんといおうと、現在に至るまで、日本のシュールレアリストといえば、西脇の名があげられる。一九二九年の『超現実主義詩論』、翌年の『シユルレアリスム文学論』によって、西脇はすっかりシュールレアリストとしてまつりあげられてしまった。しかしたとえば、「超現実主義詩論」という本のタイトルが、西脇ではなく春山行夫によってつけられたことは、よく知られている。西脇本人はこれを、「詩論」かせいぜい「超自然主義詩論」としたかったらしい。[...]
 西脇自身は、用語にはこだわらなかった。というよりむしろ、超現実主義について、非常に包括的な、悪くいえば大雑把な概念を持っていたといえる(8)。

 ここでは西脇は「シュールレアリスト」なのだと言われている。しかしそれでも事情が異なるとは言えないだろう。日本のシュルレアリスムについての論集を編むなら、西脇の仕事に触れないわけにはいかないが、そこにはやはり注意書きも欠かしてはいけない。こうした西脇順三郎と彼の『超現実主義詩論』の扱われ方について、いまいちど考えてみよう。裏をかえせば、西脇順三郎と『超現実主義詩論』とは、たしかにシュルレアリスムの刻印を捺されてはいるが、しかし素直なシュルレアリスムの解説や顕揚であるとはけっして言えない、そんな書物であるということだ。ではそんなステータスを帯びた書物がいかにして可能になってしまったのかを、『超現実主義詩論』を繙くことで確かめてみよう。

(6) 『シュルレアリスムと絵画――ダリ、エルンストと日本の「シュール」』カタログ、ポーラ美術館学芸部編、神奈川、ポーラ美術館、2019年、p. 116. なおこのカタログには『超現実主義詩論』の出版年が1928年と記載されているが、29年の誤りと思われる。
(7) 『『シュルレアリスム宣言』一〇〇年 シュルレアリスムと日本』カタログ、速水豊・他編、京都、青幻舎、2024年、p. 14.
(8) 和田桂子「西脇順三郎論――永遠にアジュルなもの」、澤正宏・和田博文編『日本のシュールレアリスム』所収、京都、世界思想社、1995年、p. 93-94.

『衣裳の太陽』第五号表紙。復刻版『衣裳の太陽』、no 5、東京、田村書店、1987年より。
『衣裳の太陽』第一号の裏表紙。復刻版『衣裳の太陽』、no 1、東京、田村書店、1987年より。

3. オートマティスムへの戸惑い(2)

 詩はimaginationという心理作用に属す。この分類はエスパニア人Huarteのなしたものである。この説は昔も今も認められてゐる。併しBacon以前は「想像」は詩の異常的方面として認められてゐた。併しBaconはこれを詩の創造力であると認めた。この点は近代の思想である。ColeridgeでもBaudelaireでもMax Jacobでも認める。
 「想像する」こととはideésの結合にすぎない。Dr. Johnsonが「metaphysical poets」を評した「出来るだけ異種の心像を乱暴に結びつけたもの」であつて所謂le bon sens とかcommon sense に反するものである。ShakespeareやMarvellやDonneの詩に表れてゐる様なconceitは論理的意識を軽蔑したものである。昔の人はこれを狂気と言ふのである。現代の仏蘭西の詩にあるTristan TzaraやJean CocteauやIvan Gollは、この想像の術を示してゐる。この種のメタフォルや聯想を作るテクニィクは、科学的に性質を異にするものを結びつけることである。又時間的にも空間的にも最も遠くはなれたるものを結びつけることである。常識にて到底不可能なる聯想を行ふのである。Gourmontのdisassociationはこの種の聯想を言ふ。英国の十八世紀の常人を重じた詩人(Dryden及Popeを中心とした)やHoratiusやBoileau等は、詩的聯想はなるべく同種の中から心像を結ぶことを俗人に教へた。
[...]
 現今仏蘭西にsurréalismeの運動がある。この名称は包括的なもので、昔cubisteとかdadaとか称せられた連中が皆この名称に満足して統一された。自らその中にもグループが分けられてゐる様であるが、その一派でAndré Bretonは他の一派のPierre Reverdyに皮肉を言つてゐる。Reverdyの想像はa posterioriであると言ふ。その意味は詩の聯想は未だ同種の心像から出来てゐるからである。Reverdyは勿論理論として「二つの現実の関係が遠く離れればはなれる程、又それが平均すればする程、その心像の力が強くなる」と言つてゐる。Reverdyの“juste”と言ふ意味とColeridgeの“balance”と言ふことと同じいのである。BretonはReverdyよりは過激である。平均と言ふことをあまり考へてゐない。その効果は実に破壊的である。
 要するにこの超自然主義の詩は昔から偉大なる詩人のもつてゐた思想であつた。別に新しい詩の形式でない(9)。

 これは『超現実主義詩論』に収録されている詩論のうち時期的にもっとも早く、1926年に『三田文学』に掲載された「PROFUNUS」のなかで西脇がシュルレアリスムに初めて触れた箇所なのだが、これをどのように考えるべきだろうか。ひとつにはこの一節を、ボードレールやコールリッジを射程に含んだ詩史観に同時代のフランスにおける詩的実験を還元しようとする操作と見なしうる(「別に新しい詩の形式でない」)し、他方では澤正宏が指摘したように、シュルレアリスムを論じるうえでの「聯想」の強調を、西脇の詩論におけるブルトンにたいするルヴェルディの優位と理解する(10)ことも可能であるにちがいない。あるいはこの箇所を読む限り、1917年のアポリネールの造語にはじまり、24年の第一宣言にいたるまでの時期にはブルトンとイヴァン・ゴルらによってその所有権が争われた「シュルレアリスムsurréalisme」という語の流通経緯(11)を渡英中に目撃していた西脇にとり、シュルレアリスムとはブルトンひとりによって代表されるものではないと理解されていたように思われることも忘れずに確認しておくべきだろう。

(9) 西脇順三郎「PROFUNUS」、『西脇順三郎全集』第四巻所収、東京、筑摩書房、1971年、p. 11-13.
(10) 澤正宏、前掲書、p. 149.
(11) 前回の注でも示したが、Marguerite Bonnet, André Breton, naissance de l'aventure surréaliste, Paris, José Corti, 1975, p. 328-337やAndré Breton, Œuvres complètes. t I, Paris, Gallimard, coll. « Bibliothèque de la Pléiade », 1988, p. 1337-1338、また日本語ではジャクリーヌ・シェニウー=ジャンドロン『シュルレアリスム』、星埜守之・鈴木雅雄訳、京都、人文書院、1997年、p. 77-78、あるいは第一宣言の巖谷訳版の注などを参照せよ。

 そう見るなら、ブルトンが第一宣言のひとつの争点としているルヴェルディの詩論とそれにたいするブルトン自身の見解、それからイヴァン・ゴルの詩論にも共通して登場する、互いに遠く隔たったふたつの項の接近によって生まれるイマージュについての議論を、西脇がシュルレアリスムなるものの最大公約数として読みとったとしてもそれほど不自然ではない。「接近させられるふたつの現実の関係が遠く、かつ適切であるほど、イマージュはいっそう強くなるだろうplus les rapports des deux réalités rapprochées seront lointains et justes, plus l'image sera forte」とルヴェルディは言い、ブルトンは「私に言わせれば、向かいあったふたつの現実の「関係を精神が捉えた」と主張するのは間違っている。精神ははじめ、意識的にはなにも捉えなかったのだIl est faux, selon moi, de prétendre que « l'esprit a saisi les rapports » des deux réalités en présence. Il n'a, pour commencer, rien saisi consciemment」と反論する。それは偶然に得られるほかないものなのだと(12)。また「PROFUNUS」の別の箇所には、ゴルがブルトンの第一宣言と時期を争うように24年10月に出版した一号限りの『シュルレアリスムSurréalisme』誌に掲載された彼のマニフェストの一節も引用されており(13)、その該当箇所にはこうある。

世界で最初の詩人は確認した、「空は青い」と。のちに、ほかの詩人が発見した、「君の眼は空のように青い」と。ずっとあとになって、人々は思いきって言った、「君の眼には空がある」と。現代の詩人は叫ぶだろう、「空の君の眼!」と。もっとも美しいイマージュとは、互いに隔たった現実の要素を可能な限りもっとも直接的に、またもっとも迅速に接近させるイマージュである(14)。

 では西脇のシュルレアリスム理解は、渡欧中に目にしたシュルレアリスムという言葉をめぐる混乱した状況をたんに反映していると言うことはできるだろうか。たしかに西脇はブルトンの固有名に依存しない、ある程度まで応用可能な詩法としてシュルレアリスムを理解しているとも言えようし、そのオリジナリティにも見るべきところはあろう。だがそれだけではない。『超現実主義詩論』の西脇は、ルヴェルディやゴルやブルトンの織りなすディスクールのなかから、選択的にある要素だけを言い落としてもいることに気づかなければならない。すなわちそれは「偶然fortuit」の問題であり、まさにブルトンによるシュルレアリスムの定義そのものでさえあるはずの、意図に従わずまた意識の外からやってきてしまうもののすべてである。

イヴァン・ゴル編『シュルレアリスム』。プリンストン大学デジタルコレクションより

(12) André Breton, Manifeste du surréalisme, op.cit., p. 324 et p. 337-338. 邦訳は巖谷國士訳、前掲書、p. 37とp. 65-67.
(13) 西脇順三郎、前掲書、p. 17.
(14) Ivan Goll, « Surréalisme », dans Œuvres. t. I, Paris, Émile-Paul, 1968, p. 87.

 まず第一宣言を字義通りに読むなら、ブルトンはルヴェルディの詩論を「詩の聯想は未だ同種の心像から出来てゐるから」批判していたのではない。互いに隔たったふたつの現実の接近が強い詩的イマージュを産みだすのは、まったくの偶然の出来事であり、それはただやってくる・・・・・だけなのだとブルトンは言う(15)。だからここで問題になっているのは西脇の言うようにふたつの「心像」の距離ではなかった。それはもはや詩法の問題ではありえないし、「この種のメタフォルや聯想を作るテクニィク」でも、「想像の術」のそれでももちろんありえない。しかし『超現実主義詩論』をさらに読みすすめるなら、西脇にとってそんなものは、絶対に認めるわけにはいかないものだったことがたしかにわかる。
 シュルレアリストたちにとりランボーは重要な詩人だが、ランボーの詩を夢や無意識といった言葉をもちいて解説するのは誤りなのであって、「なる程ideésの連結方法は超自然主義に於ては異状なるものであつて、その形態は夢に多くみる如き無意識なるものである。然し詩は夢ではない。全然有意識の心像の連結である。詩はespritで考へることであると言はれてゐる」と「PROFUNUS」の西脇は言う(16)。あるいはまた、「PROFUNUS」につづく「詩の消滅」においては「扁平な言葉でいつたら芸術上の法律行為は態と・・(故意に)やつた時に初めて芸術になる。故に無意識の表現は芸術でなく単に無意識の盲目の感情それ自身にすぎぬ」とも(17)。そう考える詩人が、偶然に生じる強烈なイマージュや、ひいてはオートマティスムについてのブルトンの報告を受けいれることなどあるはずがない。
 『超現実主義詩論』の全体を検討したとしても、こうした事情に変わりはない。ここで披瀝されている西脇の詩史観を要約するならこうだ。詩はまず意志によってなされなければならないが、それは経験的な現実を離れ、純化を経て最終的には消滅しなければならない(18)。いまとなってはむしろ凡庸なものとも見えるほど極端にモダニスム的なこうした詩史観のなかに、声が聴こえたから、それを信じてみることにしたのだと言いきってしまう、それも同時代の詩人の占める位置などどこにも用意されてはいない。

(15) 注12とおなじ箇所を再び参照せよ。
(16) 西脇順三郎、前掲書、p. 15.
(17) 西脇順三郎「詩の消滅」、『西脇順三郎全集』第四巻所収、東京、筑摩書房、1971年、p. 28.
(18) たとえば同書、p. 31-37や西脇順三郎「ESTHÉTIQUE FORAINE(純粋芸術の批判)」、同『西脇順三郎全集』第四巻所収、p. 39-45、あるいは西脇順三郎「超自然主義」、同『西脇順三郎全集』第四巻所収、p. 64-65 et p. 74-77、それから西脇順三郎「超自然詩の価値」、同『西脇順三郎全集』第四巻所収、p. 81-84などの箇所を参照せよ。

 はじめに意図したことではなかったとしても「超現実主義」の語を自身の詩論のタイトルに冠し、またシュルレアリスムと呼ばれているもののなかに、たとえばイマージュ論のような魅力的な詩法を見つけてしまうのをやめることもできないが、しかしけっして、オートマティスムなどというものを認めるわけにはいかない。こうした困惑と拒絶に彩られた西脇の筆致こそが、日本のシュルレアリスムの歴史における『超現実主義詩論』の宙に浮いたようなステータスを構成する。たしかに中野嘉一のそれのように、西脇の初期の詩篇にオートマティスムの影を見る評価を反論の根拠として挙げることもできよう(19)。だが1930年、ということは『超現実主義詩論』の翌年に刊行された『シュルレアリスム文学論』においても西脇が、意図の介在しない表現などありえないのだとオートマティスムを遠ざけつづけたこと(20)を見るなら、やはりこの詩人が自身の詩法としてオートマティスムを受けいれえたと考えるのは、どこか不合理なことであるにちがいない。
 不意に聴こえてしまった声を信じることにした? ブルトンの差しだす謎にたいするそんな戸惑いから、日本のシュルレアリスムの歴史ははじまるのだ。

(19) 中野嘉一、前掲書、p. 105-108.
(20) 西脇順三郎「文学運動としてのシュルレアリスム」、『西脇順三郎全集』第四巻所収、東京、筑摩書房、1971年、p. 95 et p. 103-104などを参照せよ。

4. 現実が帰ってくる――シュルレアリスムの30年代のほうへ

 上述した西脇の詩論のような、詩は意志によってなされ、かつ経験的な現実を離れて純化へと向かわなければならないとするプログラムに近しい発想は、『薔薇・魔術・学説』から『詩と詩論』までの詩誌においても観測することができる。たとえば『薔薇・魔術・学説』第二年第一号に別刷りで挿まれていた「A NOTE DECEMBER 1927」にはこうある。

(21)

 北園克衛の証言によれば、このマニフェストは上田敏雄の起草により、パリのシュルレアリストたちにも英訳が送られたとされている(22)が、生理的な知覚に規定されずに知覚から詩作の材を発生させること、人間の現実的な条件から離れた操作を詩法とすること、そうした操作のなかに無関心と言いうるような冷めかつ白熱した覚醒状態をつくりだすこと、といったプログラムに、西脇の影響をすこしも見ないでいることはむずかしい。あるいはまた、『馥郁タル火夫ヨ』のJ. N. と署名された序文は、「Cerebrum ad acerram recidit. 現實の世界は腦髓にすぎない. この腦髓を破ることは超現實藝術の目的である」と書きだされ、「吾々はこの燃料たる現實の世界をもやしてその中から光明及熱のみを吸収せんとするものである. 純粋にして溫かき馥郁たる火夫よ!」とつづく(23)のであり、このフレーズがこの詩集のタイトルとして全体を統御することとなる。理知による認識を理知をもって破壊することで生産される享楽のようなものが、ここでは想定されているようだ。あるいはまた、1929年4月の日付をもつ『衣裳の太陽』第五号には、ブルトンの第一宣言の最初の邦訳(24)に数カ月先んじて、すでに触れたゴルのマニフェストが三浦孝之助によって邦訳されていることも確認しておくべきだろうか(25)。

『薔薇・魔術・学説』第二年第一号表紙。復刻版『薔薇・魔術・学説』、東京、西沢書店、1977年より。

(21) 原本を参照することはできなかったため、北園克衛「「薔薇魔術学説」の回想」、復刻版『薔薇・魔術・学説』所収、東京、西沢書店、1977年を参照した。
(22) 同書、p. 3.
(23) J. N. 「序文」、復刻版『馥郁タル火夫ヨ』所収、東京、田村書店、1987年、p. 1.
(24) アンドレ・ブルトン「超現實主義宣言書」、北川冬彦訳、『詩と詩論』、no 4、1929年、p. 23-29.
(25) イヴァン・ゴル「超現實主義の宣言書(1924)」、三浦孝之助訳、復刻版『衣裳の太陽』、no 5、東京、田村書店、1987年、p. 29-30.

 西脇シューレとその周辺での情報の流通がどのようなものであったのかは、もはや完全な仕方では再現しうるべくもないし、さらに詳細にそれぞれの詩誌を検討するなら、すべてが西脇の詩史観あるいは詩論に収斂するものだと言うことはさすがに現実的ではない。だがオートマティスムの不在と詩の意識的な純化という観点に問題を限るのであれば、これらの詩誌によって展開されたディスクールのなかに、西脇の影響による一定の方向づけを見ることは可能だろう。いまとなっては彼らがシュルレアリスム、あるいは超現実主義と呼んでいるものは、きっと奇妙なものとも映りうるにちがいない――オートマティスムの欠けたシュルレアリスム? だがこうした、魅了されかつ戸惑い、拒絶しあるいはその名に憑きまとわれる個別具体的なリアクションからはじまったからこそ日本のシュルレアリスムは、標語的な要約を許さないあの独特な形態をとることになったのではなかっただろうか。
 そしてこうした日本における最初のシュルレアリスム受容の展開は『詩と詩論』において、ひとつの画期を迎える。1924年に名古屋から上京した春山行夫によって28年から主導されたこの分厚い雑誌は、31年の第一四冊にいたるまで、シュルレアリスムに限らない同時代の海外文学を精力的に紹介していくことになる。西脇順三郎、瀧口修造、上田敏雄、北園克衛といった、すでに触れた名前のほかにも、三好達治や安西冬衛、それから外山卯三郎や北川冬彦など様々な寄稿者を集めたこの詩誌の内容を一挙に要約するわけにはいかないが、西脇の示したような進化論的な詩史観と、意識的な操作によって純化される詩というコンセプトは、かなりの程度で『詩と詩論』においても共有されていたように思える。
 たとえば第一冊の後記に、「いまこゝに舊詩壇の無詩學的獨裁を打破して、今日のポエジーを正當に示し得る機會を得たことは、何んといふ喜びであらう(26)」と、この詩誌の実質的な代表者である春山は書きつける。詩学、あるいは明晰な理論がなくてはいけない。『詩と詩論』第一冊に掲載された「日本近代象徴主義詩の終焉 萩原朔太郎・佐藤一英兩氏の象徴主義詩を檢討す」において萩原朔太郎をその代表とする前世代の詩人たちを勢いよく批判しつつ、詩は「明快」でありかつ「主智的」なものにならなければならないと主張した(27)春山は、29年の第五冊に掲載された「ポエジイ論」では、「意味のない詩を書くことによつてポェジィの純粋は實驗される(28)」とまで宣言するにいたる。

『詩と詩論』第三冊の口絵。マン・レイの撮影したブルトンのポートレート。『詩と詩論』、no 3、1929年より。

(26) 春山行夫「後記」、『詩と詩論』、no 1、1928年、p. 213.
(27) 春山行夫「日本近代象徴主義詩の終焉 萩原朔太郎・佐藤一英兩氏の象徴主義詩を檢討す」、『詩と詩論』、no 1、1928年、p. 66-84.
(28) 春山行夫「ポエジイ論」、『詩と詩論』、no 5、1929年、p. 23.

 だがこうした、シュルレアリスムを含む「今日のポエジー」に賭けられた希望は、ひとつの破局を迎えることになる。『詩と詩論』第四冊において上田敏雄は「シゥルレアリストが持つ現實の世界に對する嫌惡を理解せよ(29)」と言い、第六冊では「ポエジイは假說として永遠に進歩するであらうと推測される。最善の假說は永遠の夢である。單にある感情と運動を記錄する詩人であるに止まり藝術に興味を持つ者で文藝、思想とか人類の歴史とかには參與する意志を持たぬので人類のことは關知しない者であるとされ度い(30)」と言う。こうした上田のシュルレアリスム理解にたいして、第四冊から第一宣言の翻訳を掲載していた北川冬彦は強く反論する。「上田敏雄氏は、精神の關係しない藝術の世界を假說してゐる。それは、超現實主義の一つの假說ではあり得るだらう。しかし、超現實主義の太陽ではない。それは眼をつぶつた世界の風景だ。超現實主義の太陽は、精神の關係する世界だ(31)」。
 誌面に走ったこの亀裂は、1930年、北川冬彦、神原泰、三好達治らの『詩と詩論』からの離反と、彼らによって創刊された『詩・現実』による『詩と詩論』グループのシュルレアリスムにたいする激烈な批判を結果することになる。『詩・現実』第一冊の巻頭には、ピエール・ナヴィル『革命と知識人 La Révolution et les intellectuels』の北川冬彦と淀野隆三による抄訳が配され(32)、その直後には神原泰の「超現實主義の沒落――日本に於ける超現實主義は何故かくもたわいなく沒落したか?」と題された論考が掲載されている。北川の翻訳している26年に初出の日付をもつナヴィルのこのテクストは、マルクス主義の立場からシュルレアリストたちに革命への参加を要求したものだ。つづく神原の批判はまず第一に西脇に向けられる。『超現実主義詩論』の西脇は、「つまらない現實を面白くするため」現実にたいする習慣的な認識を破壊するのだと言った。

これは單に超現實主義者に對する許す可からざる暴言であるばかりでなくて、現實に對して日夜增大していく關心を持つて居る現代人に對し、又殆ど壓倒的な威力を以て吾々を囲繞して居る現實に對して、西脇順三郎氏が極端な認識不足を暴露したものであると共に、現實に直面する勇氣と力と正義と誠實とに缺けた人々の逃避を、最も尤も[原文ママ]らしく云ひ飾つたものである(33)。

 こうして西脇からはじまった、『薔薇・魔術・学説』や『馥郁タル火夫ヨ』を経て『詩と詩論』にいたるまでのシュルレアリスムあるいは超現実主義にたいして、内部からプロレタリア文学理論との対峙、ひいては現実の問題が突きつけられる。ここで最後に思いだしてほしい。西脇がはじめに、第一宣言を受けとるにあたって切り落としたものとは何だったかを。「思考の現実の働きfonctionnement réel de la pensée」とブルトンが呼んだものを、西脇はまずはじめに拒絶したのではなかっただろうか。
 第一宣言を再び読みかえせば、オートマティスムによって得られたテクストを仔細に検討するなら、その不条理さには「結局のところほかのものに劣らず客観的なnon moins objectif, en somme, que les autres」特性や事実が見いだされるのだとブルトンは言っていたことに気づく (34)。あるいはまた、連想の「すぐれた現実性réalité supérieure」にシュルレアリスムは信を置くのだとも(35)。こうした思考によってこそ、20年代の後半から30年代にかけてやはりマルクス主義との対峙を迫られたブルトンにとり、シュルレアリスムか現実か、という二者択一が、西脇におけるような解きがたい問題を招きよせずに済んだようにも思える。
 もちろん第一宣言のブルトンが現実と呼んだものと、史的唯物論における現実なるものをすぐさまおなじものだと考えてしまうのは、まさしく知的な怠惰にほかならないだろう。しかし西脇がはじめに遠ざけた現実なるものによって復讐されてしまったように見えることは、以降の日本のシュルレアリスムについて考えるうえできっと有益な観点をもたらしてもくれるにちがいない。なぜなら瀧口修造の現実とイマージュをめぐる1930年代を通じた努力が、こうした状況のなかから織りあげられていくのだから。次回はそうした領域に立ち入る前に、瀧口とシュルレアリスムの30年代について考えるうえできわめて重要な書物、『シュルレアリスムと絵画』を紹介しよう。

(29) 上田敏雄「私の超現實主義 藝術の方法」、『詩と詩論』、no 4、1929年、p. 2.
(30) 上田敏雄「L'ESPRIT NOUVEAU」、『詩と詩論』、no 6、1929年、p. 14.
(31) 北川冬彦「詩人の眼」、『詩と詩論』、no 6、1929年、p. 34-35.
(32) なお、おそらくは検閲を回避するためか、邦題は「文學とインテリゲンチャ」とされ、「革命」の二文字を回避している。
(33) 神原泰「超現實主義の沒落――日本に於ける超現實主義は何故かくもたわいなく沒落したか?」、『詩・現実』、no 1、1930年、p. 27.
(34) André Breton, Manifeste du surréalisme, op.cit., p. 327. 邦訳は巖谷國士訳、前掲書、p. 43.
(35) ibid., p. 328. 邦訳は同書、p. 46.

▶袴田渥美 批評同人誌『ラッキーストライク』運営。シュルレアリスムとロックンロール。

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