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干さオレ~四ツ谷怪談篇~(第四回)

文芸時評・10月 荒木優太

 将棋と文学研究会にお呼ばれして合同合評会に参加してきた。合同というのは近世の滝沢馬琴から戦後の澁澤龍彥にいたるまでの将棋文学を集めた『将棋と文学セレクション』(秀明大学出版会)と等身大の文豪の素顔が見えるエッセイアンソロジー『文豪悶悶日記』(住本麻子との共著、自由国民社)の二著のことである。近代文学のアンソロジーが裏テーマといったところか。
 ゲストということでおだてられたせいか、現在編纂中のプロレタリア文学アンソロジーの計画やら、そのほか馬鹿なことを色々と口走ったが、最後の最後にアンソロジーの意義を聞かれて咄嗟にこんなふうに答えた。自分は小林多喜二の『党生活者』が好きだ。一番最初に出した本で論じて思い出深い。この小説のなかに「スクラップ・ブック」という比喩がでてくる。政治運動を有利に進めるには様々なことを知っていなければならない、かといって体系的に学んでいる暇はない、だから貪欲になんでも断片でいいから自分の経験の帳へと切り張りしていって自分用の教科書を自分でつくるのだ。同じようにアンソロジーとは、政治と文学を結ぶもっとも重要な技術なのである、と。
 即興で考えたわりにはいっぱしのことが言えた。というより、喋っているうちに自分がやってきた、やっている仕事の大半は本質的には選集づくりなのではないかという気さえしてきたのだった。すべてを完璧に学ぶことなどできないし、そもそも学びたいとすら思っていない。物知りになりたいからものを読んでいるのではなく、よく生きたいから読んでいる。この時評だってそうだ。楽しい小説にせよ、下らない小説にせよ、カササギが光ってるものならなんでもかんでも巣へ持ち帰るように、毎月毎月なんとなくぴんときたセンテンスをこの自由帳に盗ってきて、別の光りものとごちゃ混ぜにするのが楽しい。この作業に下品を感じる読者もいるようだが、自分はそういうふうにしか学んでこなかったし、なによりカササギはとても美しい鳥だと思う。
 上田岳弘の新刊『多頭獣の話』(講談社)から抜き出すとすれば、「なるほど、と延末さんは呟いたが、それは間を埋めるためだけの相槌に聞こえた」(一四六頁)だろうか。本作はYouTuber小説である。毎日の残業で疲れ切ったシステムエンジニアの家久来には、かつての部下にYouTuberになるため退職した桜井がいた。桜井は人類の未来を予言するYouTuberロボットという名で活動をはじめ、うなぎ登りでチャンネル登録者数を増やし、奇妙な仲間(彼らは過去の上田作品に登場したYouTuberたちである)とのコラボを経て世界でも有数のチャンネルに育つものの、ある日を境に一切の更新を断つ。だというのに、YouTuberロボットとその仲間たちがなぜか家久来の身辺で出没するようになった。家久来は桜井の真の目的を見極めるため謎めいた穴の奥へと進んでいく。
 一読して懐かしいものを覚えた。自分だけに宛てられた小説というギミックは物語を進めるための上田文学の常套手段で、ある登場人物が私的に書き綴った小説もどきが主人公のもとに送られてくることがよくあるのだが、これが本作では家久来にだけ宛てられた動画配信に代わって進行していく。桜井の目的が巨大な穴づくりにあったと明かされて以降は、九段理江『東京都同情塔』に先立ち塔というモチーフに延々偏執してきた上田文学が、今度は穴を開拓していったのかと一応は整理できるものの、そもそも『ニムロッド』は仮想通貨の取引履歴の記載=採掘作業(マイニング)の話だったわけで、掘れば穴ができるに決まっているのだから、いまにはじまったモチーフではない。天空に塔を築くのも地下に穴を掘るのも似たようなものだ。新たな意匠の奥でつづく伝統芸を味わった。
 そう、だからこそ、沈黙を避け特に意味をもたない言葉で「間を埋める」極めて凡庸な日常会話が、かえって新境地めいた新鮮な感興を与えもするのだ。家久来は桜井とのメッセージのやりとりでも「なるほど」という「ただの場つなぎのための相槌」を打つ(二〇三頁)。なるほど、なるほど、なるほど。穴が掘られていたら穴を埋めよう。落ちたらたいへんだからね。それが大人の義務ってものさ。どんな種類のものであれ言葉が生まれるとそれをほおっておけず、なにかをくっつけたり、返したりしたくなる生理現象がある。Twitterはだから地獄になっている。でも、星野源も歌っていたじゃないか、「地獄でなぜ悪い」って。言葉には言葉を裸の王様にさせない責任がある。桜井が太宰治的で反出生主義的な小児めいた誕生の後悔の念に押しつぶされていると知ったとき、彼を抱きとめるのにネオロジスムに用はない。常套句(lieu commun)でよい。たまには泣きたくなる夜もあるよねとか、生きていればいいこともあるとか。大人の責任ってやつさ。ジャン・ポーラン『タルブの花』に教わったことを抱擁する家久来の姿から思い出した。
 『現代思想』九月号の特集は「読むことの現在」三宅香帆「誰かの寂しさを言葉ですくいあげる」市川沙央×頭木弘樹対談「合理的調整としての読書バリアフリー」がなぜか炎上気味に言及されていたが、それより詩人の久谷雉「風になる」から「むしろ、詩はそのような暈が覆うことのできない傷口やゆがみがあることをたがいにたしかめあう言葉だ」(一四八頁)の一節を引きたい。同作は「世界がもし100人の村だったら」が教育現場でもつ傷ついてもそれを見せるなのメッセージに抗して、傷やひずみを帯びた言葉としての詩を称揚する。表題の「風」とは乾燥で傷の存在を認めていく詩作それ自体に相当する。
 ここで「暈」は「村」をかたちづくるための「共感の暈」の意で用いられている。要するに批判の対象になっている。にも拘らず、暈は太陽であれ月であれ、実に啓発的な形象である。光源をぼんやりと囲んでいても暈は境界線にはならない。線というにはあまりにもぼんやりとして内と外を画定できないからだ。だというのに、ある視点にとっては帯状のものが確実に一周している。西田幾多郎『善の研究』はウィリアム・ジェイムズを念頭にしながら、意識の縁の部分、意識と前意識との境を「縁暈」(fringe)と呼んだことがあるが、詩が暈を払いのける傷口やゆがみの強調にあるのだとしたら、自分が詩を読めないのも道理だなと妙な納得をした。自分は暈にこそ関心がある。比喩的にいえば、詩はかさぶた、液のような皮のようなじくじくしたものを語れないのかもしれない。元の状態に戻ろうとする身体のホメオスタシスは健全が過ぎるのかもしれない。癒えない傷口を抱え見せつけてくる人々にドン引きしつつもせめてエールを。『るろ剣』は好きだけど巴編はさして面白いと思わないのとパラレルなのだろう、きっと。緋村剣心がせめてジョーカーくらいおどけてくれたらよかったのにな。おろろ。
 読むことつながりで、かまど+みくのしん『本を読んだことがない32歳がはじめて本を読む』(大和書房)所収の雨穴『本棚』を紹介しておこう。同書は三二歳になるまで本を読んだことがなかった男(みくのしん)が友人(かまど)の助けを借りながら『走れメロス』『一房の葡萄』『杜子春』などを音読し、そのリアクションを逐一記録していったもので、ウェブ記事で人気を博し書籍化に至ったわけだが、最後に読む『本棚』は雨穴の書き下ろしになっている。
 本のない家で育った「私」は小学校四年生の頃、公園のベンチで本を読んでいた年上のエミと出会う。彼女から『走れメロス』を借りたことをきっかけに読書の魅力に目覚めていった「私」は、一〇年後のある日、エミが自殺未遂を起こしたという報に接する。意識不明のエミが残した手紙には、自分は読書が嫌いだったこと、ただ大人に褒められるために読書していたことなどが綴られていた。しかし、その手紙が『走れメロス』に挟まれていたことを「私」は「エミさんは、本を好きになろうとしていたのではないか」(二九八頁)と解釈し、エミが真の読書好きになるような作家になろうと決意する。時を経て作家になった「私」はエミからのメッセージに一人微笑むのだった。
 興ざめなことを書くようで申し訳ないのだが、うるせーバカと思った。本を読むのが嫌だって本人がいってんだから世の中そういう人もいるよなと黙って受け止めるくらいの成長はしとけ。自殺のリスク犯してまで読むもんじゃねーから。なんで読書好きと映画好きはこんなに面倒な性格してんだ。嫌いなもんが一つ二つあったって別にいいから。小学校の給食の時間じゃねえから。本を読まなくたって面白いこと、楽しいこと、知的なことはたくさんある、それぐらい本を読んでんだったら分かっておいてください。本を読むことがなぜか一大事になっているこの感じ、出版斜陽産業よしよしいい子いい子で、あーマジでイライラする。ハイ、閉店でーす! おしまいおしまい。ばいばーい。

▶荒木優太。在野研究者。1987年生まれ。著書に『これからのエリック・ホッファーのために』(東京書籍)、『貧しい出版者』(フィルムアート社)、『仮説的偶然文学論』(月曜社)など。近刊に『サークル有害論―なぜ小集団は毒されるのか』(集英社新書)がある。

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