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干さオレ~二子玉死闘篇~(第一〇回)

文芸時評・4月 荒木優太

 ひろゆき、成田悠輔、ゲストらが喧々諤々の議論を行う「Re:Hack」など人気コンテンツを発信してきたYouTubeチャンネル「日経テレ東大学」が社内事情でアーカイブごと消滅するそうだ。登録者数100万人超えのアカウントだけにその大胆な決定に驚く。プロデューサーの高橋弘樹はテレビ東京を退社し、単身、YouTuberとして討論系バラエティ制作を続行していくとの由。
 成田悠輔と聞いて、恐らくいま多くの人が思い浮かべるのが「高齢者は集団自決するべき」発言の炎上だろう。世代交代の進まない旧態依然と増大しつづける社会保障費を前にした過激な提言の数々は、長谷川豊、落合陽一&古市憲寿などを先行例として、もはや見慣れたものになって久しい。だいたい安楽死の議論がついて回るのも様式美と化した。このような繰り返しは、我々の社会の根底にある老人嫌いを露呈させているようにみえるが、果たしてどうか。
 木村友祐『手紙』(新潮)は、病院のコロナ対策によってなかなか面会が叶わず手紙で意思疎通するようになった父親を看取ることになった娘視点の話だが、冒頭近くにビニールの手袋をつけてATMを操作する印象的な高齢女性を配置している。老婆を一瞥して瞬間的に「生きたいんだなあ」と思うが、これは「自分の暗い部分をのぞいた気がして恐ろしくなる」ことでもあった。「あさましいものを見たような憐れみと蔑みがまじった目つき」を自分がしている。いいかげんもう死んでもいいではないか、という気持ちがどこかにあるからだ。
 優生思想と断ずることもできようが、とはいえ、彼女に同感する日本人もまた老若男女問わずそれなりの数いるだろう。「生きたい」は父の死んだ後にも再度用いられ、「「生きたい」というのは、ただ隔離されて生命維持ができればいいというわけではなくて、家族や友人と会って会話したり触れあうことを含んでの「生きたい」なんじゃないのか」とコロナ対策の盲点を衝く言葉として帰ってくる。よりよい生の充実を想定している点で、テクストは成田発言とそう遠くないと直観する。梗概に少しばかりひねりを加えて、多少命を危険に晒してでも生にとって人のぬくもりが大事であると要約してみれば分かりやすいか。生命維持だけでは十分ではなく、家族や友人とのコミュニケーションを通じた人間的な生をまっとうして初めてその名に相応しい。
 ここで提起されるのは、配偶者も子もいないこの娘自身の未来がもしかしたらそうなるかもしれないように、友も家族もなく意識も混濁したまま身体が各種装置に繋がって延命だけが続いていくような貧しい(?)生のあり方に我々が然りといえるか、我々自身がそのような最期を遂げてもいいといえるのかどうかという問いかけだろう。たとえば成田と小川淳也とが対談しているコンテンツでは、老人ホームを訪問しているなか、かつてなら生存に執着していた高齢者たちも、胃瘻以前の段階、家族とのコミュニケーション可能性が保たれたうちでの死を受け入れはじめているといい、「自決」が(少なくとも成田の主観にとっては)高齢者当人やその周囲の人々の意向に添うかたちで発話されていたことが伺える。
 「おひとりさま」で知られる上野千鶴子が実は籍を入れていたという報道が一部界隈で話題になった。優生思想をもつ多数の日本人が案じているのは、単なる未来の財政状態ではなく、「異次元」とかいう中二極まりない政策でむしろ克明になった少子化問題の決定的な取り返しのつかなさ、そこから予見される社会関係資本の希少財化であるのではないか。人権軽視の発言が性懲りもなく繰り返され、しかも反感ばかりが寄せられるのではない状況の背後には、希少財獲得の競争に自信をもてない日本人がせめて「あさましいもの」にはなりたくはないという最後の自尊心が透けてみえる――そういう意味で、いますぐお前が切腹しろ、という反論はあまりクリティカルではないと思う、おそらく成田自身、自分の生命が大して重要なものだとは思っていないだろうから――。
 だからこそ、本作が、飼い猫である紋次郎と小菊との共同生活を素朴に称揚するとき、フィクションはまだ現実に拮抗できていないと考えざるをえない。
「わたしにとっては、会社で総務の仕事をしているときよりも、紋次郎が元気でいるのを見たり、小菊と心と体温を通わせているときのほうが、いちばん生きている喜びを感じる。こんな喜びは社会ではだれにも評価されないんだろう。でもほんとうは、この実感こそがいちばん大切に扱われるべきなんじゃないのかなと思う」(木村友祐『手紙』)
 二つほど問題点がある。家族や友人の代替として見出される伴侶動物は、その道徳的な疑問もさることながら、看取る主体としての位置を獲得できるとは思えない。多くの場合、伴侶動物の死は飼い主によって看取られる。逆はない。そして動物には死の観念がないという。誰からも看取られることのない不良債権と化した敗者の生の課題にこれでは応えられない。「生きたい」を投げ捨て、ただただ心臓を動かせという無味乾燥に徹しない限りは。
 もう一つは、現状認識として「こんな喜びは社会ではだれにも評価されないんだろう」が間違っているということだ。メンタリストDaiGoの「生活保護の人たちに食わせる金があるんだったら、猫を救ってほしい」「ホームレスの命はどうでもいい」云々の差別発言を挙げるまでもなく、中高年男性よりも犬や猫の身を案じる生活者は多い。スーツ姿の男たちが会議で熱心に議論している様子なんかよりもペットが可愛く飼い主にじゃれている姿のほうが再生回数を稼げる。それは、売却用YouTubeアカウント一式のなかに猫がセットで組み込まれているという邪悪としかいいようのない現実によっても推察できる。
 テクストがなぜ猫との触れ合いを強調しているかというと、コミュニケーション内包的な「生きたい」の根底には人間以外にも広がる動物的、第一次的な基盤があると言いたいがためだろう。そこには連続性があり、コロナ対策の遠隔管理体制に象徴される生命維持至上主義の切断と対をなしている。だが、猫とは触れ合いたいけども人間とは触れ合いたくない/触れ合いたいと思われない大量の独身者の出現は、猫から人間への紐帯を、猫か人間かの岐路に変えてしまう。それに加え、直接面会を禁じられたため常用せねばならなくなった「手紙」は、第一次的基盤とは異なる第二次の主義に属している。
 ここに急所があると思う。手紙は直接的コミュニケーションの模倣や単なる代替にすぎないのだろうか。そうではないはずだ。死んでもなお夫宛ての手紙を娘の母は書き続け仏壇に供えるのだから。にも拘らず、そういうふうにみえないところに本作の弱さがある。触れ合いがなくても手紙のようなものさえあればそれでいいと言ってしまう境地の前で足踏みする怯懦がある。そしてこれを克服しない限り、成田やそのフォロワーには勝てないと思うのだ。ついでに苦言。一六六ページの「昔は女の扱いってそんなものだったんだろう。今だって根っこはなんにも変わってないと思うけど」の第二センテンスは削除したほうがよい。作者がひょっこり頭を出して、自分はそういうこともちゃんとわきまえているんですよ、といわんばかりだ。小説でやることではない。
 一作に手間取ったので、あとは簡単に。百合専門の文芸誌『零合』(零合舎)が創刊された。全体的に幼稚な世界観だなと思ったが――not for meというやつだろう――、強いて挙げれば赤坂パトリシア『不安スポンジたち』。不安を同期してクライアントを楽にさせる仕事が普及した近未来SFで、不安同期士という設定の物珍しさだけでなく、言語の壁を設けることで感情の国境なき伝染や文脈を欠いた罵倒語の重みを上手く表現している。『限界』第三号のなかでは雲居明志『僕のいない芝生の上で』を。「行為」をしたいからという理由だけで卒展に飾られる絵を盗み出し、そのまま山形旅行に行き、最後には絵を戻す「行為」を完遂させる学生たちの青春の一齣。丸山真男は「であること」と「すること」を対比したが、何者か「であること」に拘束される直前、大学四年という最後のモラトリアムにて純化された「すること」は、どれほど無意味だろうが、「いつかは忘れるけど、いつかは思い出すことができる。それだけでいいんじゃない?」のオプティミズムによって肯定される。人物間の描き分けにやや難を感じなくもないが、爽快だった。
 ところで、批評家の小峰ひずみが「文学+ウェブ版」に寄稿した矢野利裕『今日よりもマシな明日』書評を始点として、小峰、川口好美、杉田俊介、矢野らが応酬を繰り広げている。ひどく乱暴に要約しておけば、ふざけた態度の小峰にもっと真剣にやれとみんなで説教しているの図である。のちに語られる批評真剣論争の幕開けなのであった……というのは冗談だが、谷川雁をリスペクトしてる奴に真面目にやれっていったって詮無いのでは。あいつって「東京へゆくな」って言っておきながら東京に行った奴じゃん? とりあえず、書評依頼した中沢忠之の胃がいいかげんきりきりでもうじき穴が空きそうなので、胃薬代ぐらいはおごってやろうと思う。ほらー、批評なんかやりたいなんていうからこんなことになるんだぜ?(ニヤニヤ)

▶荒木優太。在野研究者。1987年生まれ。著書に『これからのエリック・ホッファーのために』(東京書籍)、『貧しい出版者』(フィルムアート社)、『仮説的偶然文学論』(月曜社)、『転んでもいい主義のあゆみ―日本のプラグマティズム入門』(フィルムアート社)など。

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