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『情況』は国家か?――トランスジェンダー特集と「言論の自由」をめぐる走り書き

【評論】小峰ひずみ

 ある雑誌の特集が炎上し、しかも特集外の欄に記事を寄稿していたとき、いったいどうするべきでしょうか。ほおっておく。それも可能です。しかし、今回の特集の記事を取捨選択する権限を持っていた塩野谷恭輔さんは友達だ。少なくとも、いくつかの対立を確認し合う知り合いではある。加えて、こちらの持ち込み記事を無理言って組み込んでくださった恩がある。また、正直に述べると、私は新刊『悪口論 脅しと嘲笑に対抗する技術』をまともに取り上げてくださるのは、「変革のための総合誌・・・・・・・・・」(左翼にとってはかなり思い入れのある題字です)である『情況』誌だけだろうと、一方的に下心を持っていたのです。しかし、まだ声もかけられていないのに先に述べておけば、私はこのような恥ずべき特集を組んだ後の『情況』に図々しく登場することはできない。この特集でしばしばやり玉に挙げられるいわゆる「過激な活動家」から「差別追認!」と非難されることを恐れるからです。そして、私はその非難を正当なものだと思うし、私はその制裁(本誌ではどうやら「キャンセルカルチャー」と呼ばれているようですが)に加わるべきだと思うからです。だから、私は塩野谷さんの署名が記されている巻頭言に、いくつかの疑義を呈することで、『情況』誌との関係を継続させ、私の政治的立場を保守し、そして、塩野谷恭輔さんとの敵対関係を温存したい、そう思います。

一、 国家か?

 塩野谷さんは「言論の自由」を擁護しておられます。たしかに言論の自由は近代社会の原則であり、日本国においては憲法二一条に記されています。むろん、憲法は公務員の行動を制約するものです。市民間の紛争調停を司る民法において、「言論の自由」なる言葉は記されていません。誰かの言論を抑圧したとしても(ex雑誌に掲載しない・殴る)、それは掲載契約を破棄したりや不法行為を犯した(殴る)限りで、罰せられたり損害賠償を請求されるのであり、私人間においては、言論を抑圧したからと言って罰せられたり請求が認められるわけではありません。要するに、一法人にすぎない情況出版社が「言論の自由」を掲げる必要はないし、その権限もないし、その正当性もない。
 むろん、何が差別か?という議論を喚起したいという、その意図や方針は理解できます。たとえば、こう述べておられますね。

もちろん差別はないほうがいいので、差別的な言説について掲載するかしないかで言えばしない方がいいと私も思うが、そうすると、その言説が差別的かどうかを誰が判断するのか、という話になる。雑誌掲載なら編集長判断だし、社会的には司法が判断するだろう。ところが、その判断基準は必ずしも客観的でも普遍的でもないので、論争が起きることは必定である。そして、その論争自体が再帰的に「言論の自由」というフィクションを担保することになるだろう。(だからこそ編集長判断に批判が寄せられることもありうるし、司法判断に挑戦するという政治的立場もありうる。)(一三頁)

しかし、その線引きは社会的な紛争の中で決定されるものです。情況出版社は国家でも社会でもありません。法人です。そして、社会の中で・・・一法人は自らの政治的立場(何が差別か?)を自らの責任で決定しなければなりません。要するに、今日において雑誌は、プラットフォーム企業や本屋(国家により保護されています)と異なり、いやおうなくヘゲモニー闘争に巻き込まれるのです。そこでは「超越論的な立場」(一二頁)さえもひとつの政治的立場に他なりません。
 なるほど、「雑誌は公共を担うプラットフォームであり、社会的な紛争を顕在化させ公論に付すのが使命だ」、ということかもしれません。しかし、公共は一雑誌で担保されるものではなく、憲法によって担保される「言論の自由」によって、さまざまな行為主体によって守られるべきものです。そこでは行為主体はそれぞれ責任を有します。たしかに「両論併記」を糾弾することで政治的分断が加速する恐れはある。私もこの雑誌を手に取ることでさまざまな言説を斜め読みすることができた。それは認めます。また、より突っ込んで言えば、雑誌の「両論併記」を糾弾するなら、ヘイト本を置く本屋やヘイターを放置するSNSの責任はどうなるのか、ということにもなる。しかし、SNSが多くの差別表現を放置させている現段階では、差別主義者は現在もプラットフォームに差別的な言動を投稿できます。(プラットフォーム企業は行為主体ではないという一点において、差別糾弾を免れています。)公私がメディアや情報技術によって分けられるものにすぎず、ネットがいまや私的な怨念のアゴラにすぎないとすれば、せめて雑誌くらいはそこから距離を取り、自らの責任で公私の境界を選別してほしい、と私は思います。わざわざプラットフォーム企業の愚を、雑誌で追認し「公」としてお墨付きを与え、全国に流通させる必要があるかどうかはなはだ疑問です。
 巻頭言において『情況』誌の「編集長」が「社会」における「司法」とパラレルであるとされていることも気になります。なぜなら、編集長は基本的に司法ではなく、経営主体(国家の隠喩で言えば、行政)としてふるまうものだからです。司法は当事者がいて、訴えがあり、その訴えの正当性を吟味し、判決する機関であり、原則的に法学共同体に対する責任(判例の産出)しか持ちません。対して、行政主体は自らの施策に対する責任を有する主体です。だから、裁判官は裁判官として責任を問われることはありませんが、行政主体は当然のことながら民事・刑事で罪に問われます。ここで、塩野谷さんは自らを裁判官だと擬制されることで、言論を掲載する責任を回避したように思います。
 今回の特集で論客を選んだのは、編集部であります。その編集部が掲載論文を「差別かどうか」判断したわけです。「差別だと思いながらも掲載しました」では、それは露悪的な保守派の論理と同じです。そうではないなら、「変革のための総合誌」を掲げる雑誌の編集部が、これらの論考を「差別ではない」と判断された。そういうことになります。にもかかわらず、「言論の自由」を掲げる『情況』誌の編集長である塩野谷さんは、そこに責任を持たない。それではいけないと思います。出版社は国家ではなく法人ですし、編集長は裁判官ではなく経営主体です。そして、残念ながら、あるいは、喜ぶべきことに、『情況』は卑劣なプラットフォーム企業ではありません。
むろん、これらの経営判断が「いや、LGBTQアライの話ばかりでは儲からない。両論併記ならまだ雑誌は存続できる」というもの(そういう記述は存在します)なら、大いに納得はしうるものです。実際、多くのオールドメディアは醜悪にもこの路線に舵を切っています。そうするなら、そうするで、そう宣言して、そういうメディアとして生き残るべきです。

二、 懸念について

 白井論文でも似たような記述が散見されましたが、この巻頭言でも「懸念」という言葉が散見されます。

トランス当事者による公共施設利用をめぐって噴出している懸念は、性自認至上主義の立場に対して向けられたものである。TRAは、実際にそのような立場をとるトランス当事者はごく少数か皆無であって、そうした懸念はトランス当事者の実態と乖離している、と主張しているが、まあこれは正しいだろう。だが、法制化のような社会実装の際に、トランス女性を自称するヘテロ男性の性犯罪者が女性スペースに侵入しうる危険性を排除することは事実上不可能である。その意味では、そうした懸念の表明をたんに「トランスヘイター」と呼んで片づけることはできないはずだ。(9頁)

私は最近、法律を勉強しています。だから、宗教学を勉強している塩野谷さんと対話することを楽しみにしていたのです。そこで前提の話をすると、法は制定(立法府)と解釈・執行(行政府・司法府)に分かれて機能しています。塩野谷さんは法制定のことばかり気にしておられる。なるほど、私たちが(選挙を通して)関与しうるのは法制化の段階だけだということかもしれません。しかし、法は解釈されたうえで、執行されねばならない。しかも、法の解釈は画一的ではないのです。法解釈について私たちが関与する余地は(法制定よりも)ずっと大きい。法は、「社会実装」されるがゆえに、世の中を一刀両断するものではありえません。「社会通念上」「社会観念上」「合理的」などの曖昧な言葉で、法は解釈の余地を残しているのです。
 その上で、「懸念」や「危険性の排除は事実上不可能だ」ということを理由にして、論を組み立てる態度が気になりました。「懸念」などという感情は、いくらでも湧いて出てくるものですし、なんであれ危険性の排除は事実上不可能です(車ほど危険なものはありませんが、それを排除しますでしょうか)。「懸念」という言葉から出てくるのはセキュリティの論理、治安の論理です。懸念を払しょくせねばならない! この言葉のためにどれほどの「過激な活動家」が警察による予防拘禁にさらされたことでしょうか。どれほどの人間が差別主義者の醜悪な言動に晒されてきたでしょうか。そして、どれほどの法が蔑ろにされてきたでしょうか。それを認識したうえで「懸念」なる一語を使っておられるようには見えません。
 懸念を払しょくすることは原理的に不可能です。ゆえに、「その懸念もある」「その懸念もわかる」という言説から導き出されるのは、異物の排除・排斥でしかありえません。それが差別につながります。そして、今回はそのような「異物」(とされる主体)を特集にあげるのです。本雑誌で頻繁にやり玉にあげられている「過激な活動家」たちは、この「懸念」の存在にこそ強く警戒しているように思えます。「懸念」の表明だけで十分に糾弾されてしかるべき理由があるのです。その帰結は目に見えているからです。
 にもかかわらず、「両論併記」を肯定せんとする巻頭言には「懸念」なる言葉が散見されます。そして、その懸念の存在(これはあって当然の感情です)に対抗するために付されているのは、あくまでそれは「懸念にすぎない(かもしれない)が」という弱々しい留保なのです。その留保を掲げつつ「無知で非合理的な活動家どもが!」という理性的な頭のいい人たちの怨念を堂々と掲載されても困ります。また、「両論併記」の理由付けとして、「キャンセルカルチャー」なるものが盛り上がることで「罪刑法定主義を超えた私刑さえ可能になる」(一二頁)云々の話がありますが、何を言っているのですか。罪刑法定主義は公務員が私人を裁く際の原則であり、私人間の私刑や制裁の原則ではありません。そして、私刑や制裁が国家機関に裁かれるのは、それが不法行為であった場合に限ります。それ以外は基本的にやりたい放題でいいのです。それが刑法の基礎の基礎である「刑法の自由保障機能」というやつです。近代国家の原則を一法人に適用すると、結局はごまかしや乱用に帰結します。むしろ、法を蔑ろにし、人権をはく奪しようとするのは、いつだって「懸念」(セキュリティの保持)を語ることで執行権力の肥大化を推進する人間たちです。このような基礎的な問題は編集部の誰かが気づき指摘して然るべきでしょうに。
 その「懸念」の存在こそ対象化し問題にしなければならないと思います。「懸念」に突き動かされてはいけないのです。それは言論誌がやってはいけないことだ、と私は考えます。なぜなら、前述のとおり、「懸念」はセキュリティの論理を全面化させ、法を停止させる例外状態を呼び寄せる魔法の言葉だからです。法が停止された例外状態において、法によって担保された「解釈」(人文知)の位置づけは格段に下がります。それがいま起きていることです。ゆえに、法学や人文知は権威を失っているのではないでしょうか。人文知への敬意を失わない『情況』誌がかかる困難な運営を強いられている遠因もここにあるでしょう。だからといって、かかる状況に屈服していいわけではない。
 ここは「変革のための総合誌」の名に恥じるべき箇所です。なぜその「懸念」の存在に対して、懸念が生み出す恐怖に対して、「その懸念に惑わされるな」という言葉を対置しないのでしょうか。塩野谷さんにはその能力が十分にあるはずです。せめてそれぐらいやってもよかったと思います。「言論の自由」で「懸念」の存在を肯定してしまってよいのでしょうか。言論人として、「懸念」の論理に加担してよいと思われているのでしょうか。愚劣な感情をそのままに氾濫させて対象化しないなら、もう言葉とかいりませんよね。

三、仮想敵について

 最後です。「キャンセルカルチャー」なるものがあったとして、それが歴史を抹消しようとするものだ、と書かれています。というか、そういうものとして「キャンセルカルチャー」なるものが描かれています。

おそらく真の問題は排除したり痕跡を消し去ったりすることで、現実に起きなかったことにできる想像的に抹消できると考えられている点である。(八頁)

誰が「考えて」いるのでしょうか。引用も参照もいっさいありません。私はここではじめて「キャンセル」(なる行為)をする主体が、歴史を抹消できると考えていると知りました。しかし、その主体への対応物が見当たりません。いったい、どこに歴史を抹消したいと考えている人間がいるのでしょうか(いるのかもしれませんが、それは可能性の問題にすぎません)。
 あるいは、どうやらこの世に存在するらしい陰謀論者の話。

陰謀論者もまた、世界という複雑系が抱えている問題の原因を、ひとつの悪の黒幕へと単純に帰したいという欲望を抑えられない。(八頁)

欲望? いったい、人間には他者の欲望を特定することができますか? そのような欲望を持っているのは、どこの誰の話でしょうか? 私は職業柄「陰謀論者」によく会います。それは熟慮の結果として、陰謀を唱えている人たちのことです。誰も世の中が単純だとは考えていません。むしろ、複雑に考えすぎていると言っていい。いろいろ聞いてみると、めちゃくちゃ勉強していたりします。私は陰謀論者に「欲望」を見出したりしません。だから、その欲望が単純か、複雑かもわかりません。なぜなら、人間は他者が何を欲望しているか、わからないからです。このような立論では、塩野谷さんの態度は「下衆の勘繰り」(今回の『情況』への寄稿で絓秀実に用いた罵倒語です)にしか見えません。
 なるほど、SNS上に見られる「衆愚」をどう扱うべきかは、厄介な問題です。しかし、その対応によって「解釈」を一応の任務とする人文学の基礎を疎かにしていいとも思えません。「キャンセルカルチャー」「陰謀論者」はプラットフォ―ム上の勢力です。「こんなやつらが存在している」という事実を描写しているかのように書いて、実は行為遂行的に「作り上げている」ように私からは見えます。そして、それらを前提にして自分の立ち位置を確認/正当化している、と。しかし、これらの言説は、プラットフォームを基準にしているため、引用も参照もない。根拠を明示することなく論敵を製作し、それに批判を加えており、検証性を欠いているがゆえに、人文知の基礎であるクリティーク(正しいテキストと正しい解釈を制定する試み)の最低限さえ守れていないと思います。SNS上の勢力を登場させることで、普段に比して塩野谷さんの言説は幾分劣化しているように見えます。

 むろん、私が本稿で作り上げた「塩野谷恭輔」も事実確認的な言明ではなく、行為遂行的な言明にすぎないことでしょう。しかし、私からはこう見えます。
 
以上です。返答なり、応答なり、お待ちしております。走り書きで申し訳ありませんでした。

▶小峰ひずみ 1993年生 大阪大学文学部卒 「平成転向論 鷲田清一をめぐって」で第六十五回群像新人評論賞優秀作。著書に『平成転向論 SEALDs/鷲田清一/谷川雁』(22年5月)、評論に「人民武装論 RHYMESTERを中心に」(『ことばと』vol.6、22年10月)、「大阪(弁)の反逆 お笑いとポピュリズム」(『群像』、23年3月)、「議会戦術論 安倍晋三の答弁を論ず」(『群像』24年7月)がある。24年8月に『悪口論 脅しと嘲笑に対抗する技術』を刊行。

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