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「進化論」の嘘 ~人は矛盾に満ちた生物~

皆さん、進化論って知ってますか? って聞いたら失礼ですよね。もちろん、みんな知っています。でも、実は「進化論」には2種類あることを知っている人は、そんなにいないかもしれません。私も最近知ったんです。

しかし、私は大学生の時から、そこにある違和感を抱いていました。それは「進化は素晴らしい」と言う捉え方です。とくにテレビはそのように伝えることが多く、生物学の特集が好きなNHKも、その傾向は強いです。

例えば、被捕食者が捕らわれないように、足が速く「進化」したとします。そして、捕食者も追いつくように「進化」した。それなら最初から何もしない方がいいから、結局進化って意味なくない?

大学生の私はこんな話を友人にして、笑われました。この考えはそんなにおかしいでしょうか? 私はこの単純な例え話によって、「進化」に価値づけすることの矛盾を表現したつもりだったのですが。

もう一つの進化論

また、イギリスの社会学者であるハーバート・スペンサー(1820~1903)も『種の起源』が出版される前から進化論を主張していた。

スペンサーもチェンバーズと同様に、生物だけでなく宇宙や社会などすべてのものが進化していくと考えていた。

ちなみに、現在「進化」のことを英語で「エボリューション(evolution)」というが、これはスペンサーが広めた言葉である。進化の意味で「エボリューション」を使ったのはスペンサーが初めてではないが、人気のあった彼が使ったことで、この語は広く普及したのである。

ダーウィンの「進化論」は誤解されている  ダイヤモンド・オンライン

まず、なんと「進化」英語での「 evolution 」と言う言葉自体が、ダーウィンのものではなかったという衝撃の事実です。ハーバード・スペンサーって誰だよって思ってウィキペディアで調べたら、数十行しか説明がない、しょぼい学者の方でした。私はとても騙されていた気分になりました・・。

では、本物の「進化論」とはいったいどういうものかと言うと、

一方、ダーウィンは、進化を意味する言葉として「世代を超えて伝わる変化」(descent with modification)をよく使っていた。この言葉には進歩という意味はない。

ダーウィンは、生物は変化して、たまたま自然に適応したものが、生き残ったということを主張したに過ぎないのです。

このようにダーウィンと同時代の進化論者たち(チェンバーズはダーウィンより7歳年上で、スペンサーは11歳年下)は、進化を進歩とみなしていた。こういう考えの根底には、「存在の偉大な連鎖」と共通する「生物の中でヒトが最上位」という考えがあったのだろう。

こんな考えはダーウィンの中に存在しません。むしろ、そうではないことを彼は発見していたのです。

進化が進歩ではないことを、きちんと示したのは、ダーウィンが初めてなのだ。
(中略)
 方向性選択が働けば、生物は自動的に、ただ環境に適応するように進化する。たとえば気候が暑くなったり寒くなったりを繰り返すとしよう。その場合、生物は、暑さへの適応と寒さへの適応を、何度でも繰り返すことだろう。生物の進化に目的地はない。

スペンサーの「進化論」の意味付けの矛盾は、大学生の私に見抜かれてしまったのです。ですから、彼は特別優れた学者ではないでしょう。

つまり、19世紀のイギリスで広く普及したのは、ダーウィンの進化論ではなくて、スペンサーの進化論だった。

そして残念ながら、その状況は21世紀の日本でも変わらないようだ。名前としてはスペンサーよりもダーウィンの方が有名だけれど、進化論の中身としてはスペンサーの進化論が広まっているのである。

しかし、どうして、スペンサーの「しょぼい進化論」が、ダーウィンの「偉大な進化論」以上に世の中に広まってしまったのでしょうか。第一に、単純にその考え方が人々に受け入れられ安かったからでしょうね。人は信じたい話を信じる傾向が強いことは、私が改めて指摘するまでもないことでしょう。

そして、第二の理由としては、ビジネス界が積極的に、それを宣伝に利用したという事実があります。

生物学的プロパガンダ

スペンサーは社会の競争の場を平等化する試みを非難した。「適者」に「不敵者」の義務感を少しでも負わせるのは非生産的だと感じたからだ。何十万部も売れた難解な大著の中で、彼は貧しい人についてこう述べた。

「自然の尽力はもっぱら、そのような人をつまみ出し、世の中から一掃し、もっと優れた者たちのための余地を作ることに向けられている」

アメリカはスペンサーの言葉に熱心に耳を傾け、ビジネス界はそれに飛びついた。

『共感の時代へ』  フランス・ドゥ・ヴァール

霊長類の社会的知能研究における世界的な権威であるフランス・ドゥ・ヴァール氏は、ハーバード・スペンサーの「進化論」が、ビジネス界のプロパガンダに都合がよかったため、彼らがそこに飛びつき、熱心に広めたと言います。

たとえば、進化の考え方を資本主義のイデオロギーと結びつけて「優れた者が劣った者を蹴落として、富を手にするのは当然だ」と考える人がいます。自然淘汰の論理を「強者の論理」ととらえてしまうと、そうした誤解が生じるようになるのでしょう。そう考える人の頭のなかには、梯子型の進化の図があり、てっぺんには人間が立っているのでしょうが、繰り返しになりますが、ダーウィンの理論には、優れたもの、劣ったものという概念は存在しません。下から上に向かっていくのが進化でないことは、十分すぎるほど強調しておく必要があります。

ダーウィン進化論に生じる誤解 NHKテキスト VIEW

ですが、この考えは、単なる間違いだったのです。

彼らの見解には実体がないというわけではないが、社会を組み立てる理論的根拠を探し求めるものは誰もが、これが真理の半面でしかないことに気が付かなくてはいけない。この見解は、私たちの種が持つきわめて社会的な特筆を大幅に見過ごしている。共感は人間の進化の歴史上、不可欠の要素であり、しかもそれは進化の新しい段階で加わったものではなく、遥か昔からある生得的な能力なのだ。

『共感の時代へ』  フランス・ドゥ・ヴァール

『利己的な遺伝子』VS『共感の時代へ』

「利己的な遺伝子」などのメタファーがもたらした行き過ぎた競争社会
人間は何を取り戻せばよいのか

『共感の時代へ』  フランス・ドゥ・ヴァール

ドゥ・ヴァールは、リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』のもたらしたイメージが、競争社会の行き過ぎを招いたと主張します。実際に彼らは、その考え方を巡ってよく「喧嘩をした」そうです。

さて、みなさんは、この相反する二大巨匠の主張はどちらが正しいと思いますか? 私はこれはどちらも正しいと思います。スペンサーの主張は単なる事実誤認と断じていいと思いますが、 ドーキンスとドウ・ヴァールが論じた相反する性質は、どちらも人間の本質だと思うのです。

つまり、その矛盾こそが生物の真の姿であり、人間は常にその相克の中にいるというのが、私の考えです。

機械と人間の違いを分けるキーワードは、この矛盾ではないでしょうか。機械に矛盾があったら、それはただのバグです。しかし、人間はそのバグを笑いに変え、そこに価値を見出しました。合理性の中のバグ(失敗)の肯定が笑いです。それが私がこのブログの中で打ち立てた仮説です。

もし、リチャード・ドーキンスとフランス・ドウ・ヴァールがともに正しいのだとしたら、最近の私たちは少し、ドーキンスに加勢しすぎじゃないでしょうか?

私は、つい最近になってやっと、 フランス・ドウ・ヴァールの存在を知りました。これは私の勉強不足だけが原因ではないでしょう。世の中の価値観のバランスが、『利己的な遺伝子』側に偏り過ぎているのです。それは、ビジネス界が、自分たちの利益のためにそれを利用したからに他なりません。そして、それはもちろん私たちのためではなく、彼らのためであることは言うまでもないでしょう。

ジョン・D・ロックフェラーは、それを宗教とまで結び付け、大企業の成長は「自然の法則と神の法則がうまく働いた結果に他ならない」と結論した。

ロックフェラー君、嘘はいかんよ。それとも、まさか本気でこんなの信じてたわけじゃないよね? 神様は人間をそんな風には、作っていないよ。人間は合理性と非合理性を同時に高度に兼ね備えた生物だよ。あなただって笑顔になったことがあるでしょう?

われわれは遺伝子という名の利己的な存在を生き残らせるべく盲目的にプログラムされたロボットなのだ

『利己的な遺伝子』 リチャード・ドーキンス

私はドゥ・ヴァール氏に加勢することにしました。ドーキンスさん、あなたのこの考えは間違っています。私達は、予めプログラムされたロボットではなく、矛盾に満ちた人間なのです。

「人間は何を取り戻せばよいのか」、 フランス・ドウ・ヴァールのこの問いに対する私の答えは、価値観のバランスです。一部の強欲な資本家らによって失わされた価値観を取り戻すこと、それが今、私たちに必要とされていることではないでしょうか。

「私」の存在価値

そして、最後にこんな考えを記して、終わりにしたいと思います。私は以前、ここで打ち出した「仮説」を使って、「人間の意思とはいったい何のためにあるのか」ということを解き明かしてみたいと書きました。

その時は分からなかったそれですが、とうとうその片鱗が少し見えたような気がしているのです。そのキーワードはやはり、「矛盾」です。人間が相反する矛盾した性質を内包しているならば、もしあなたがいなければ、それはバラバラになってしまうはずです。逆に、矛盾していないのであれば、あなたは必要ないのです。

漫画『ドラゴンボール』で、トランクスと悟天は、二人で一人のマスクマン、「マイティマスク」に扮しました。しかし意思が相反した二人は、結果あえなく分裂してしまいました。

つまり、そこには「私」が必要だった、とは考えられないでしょうか?

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