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会いたい人に馬鹿みたいに会いに行けること。


就活生から「佐藤さんの夢はなんですか」「やりがいはなんですか」と聞かれたとき、いつからだろう、わたしはするすると「たいそうな話じゃなくて申し訳ないんだけど、目の前の人に感謝されること。一緒に楽しく仕事ができること。だからもちろん色々あるけど、うれしいなぁと感じることの方が多いし、これがずっと続いていけばいい、と思っている」という趣旨のことを話すようになっていた。

はっきりとは覚えていないけれど、2.3年前はこんな風には答えていなかったと思う。
なんだろう、仕事に限らず人生に対して、もっとギラギラしていた。笑 現状に飽きたらないのが常だった。

それが「若さ」だったのだと、大人になるということは、現実と理想との折り合いをつけることなのだと言ったら悲しくなる。わたしは一生キュンキュンして(死語)ときめいて生きて死ぬと決めている。

「わたしの人生、こんなもんか」としぶしぶ諦めたわけじゃない。「わたしはこれがいい」と思って選んだ結果が今なんだと自覚している。


だって、わたしが「たいそうな話じゃない」と前置きをおいて話す、「目の前の人に感謝されること。一緒に楽しく仕事ができること」という叶え続けたい夢は、たいそうな話じゃないかもしれないけれど、全然簡単なことでもなかった。

“仕事があるうちはしあわせだ”は全くもってその通りで、目の前に「為す事」があることは幸福なのだ。ひとりで完結する仕事はないので、人とつながり、誰かに必要とされていることを実感できるから。

けれど、「いつなんどき、わたしたちの暮らし、世の中の構造がガラッと変わるかわからない」

そんなことをここまでヒリヒリと感じた経験は、社会人になってから初めてだった。

「いつでも辞められると思って働く」だけじゃなく、「いつでも会社がなくなると思って働く」ということも大事なのかもしれない。それ即ち、そういうこともあり得るという覚悟で、いつもチームで誇れる仕事をし続けるということ。


仕事だけじゃない。

会いたい人に馬鹿みたいに会いに行けること。ひしめき合う居酒屋で大笑いしながらしこたまお酒を飲めること。映画デートで肩の距離の近さにドキドキすること。少し離れて住むお兄ちゃん夫婦の赤ちゃんに触れること。さらに、パスポートさえあれば行きたい国に行けること。今はどれも、特別なことに思える。会えなくなる前に、すきな人に直接すきって言っておいてよかった。

そんなことを、世界中の人が感じるきっかけになっているんじゃないかと思う。


どちらかと言えばもともとインドア派なのでおこもりなんて全然苦じゃない!イエスステイホーム!と思っていたけれど、やっぱり「停止ボタンを押せない音楽を聴き続けることに人はストレスを感じる」のと一緒のようで、「出るな」と縛られるとしんどいみたい。心がヘルシーであるためには、自分で選んでるってことが大事。

というのも、心身ともにほんとに健康であると主張したいんだけど、この頃、目の前で東京のビル群がガラガラと崩壊したり、政府のネガ記事をモニタリングするようゆりこから直電がかかってきたり…という謎の悪夢で目が覚める。知らず知らずのうちに脳みそはストレスを感じてるんだろうな、、と思ったのです。笑

アンコントローラブルな状況が人間は(わたしは?)ほんとにきらいらしい。


話は逸れたけど、書き留めておきたかったのは、いまの混乱は、大きな悲しみとともに、わたしたちの“常識”に、「それって誰のおかげ?」「本当に必要?」「もっと他にやり方あるやろ」と疑問をもつきっかけをくれているということ。

悲しき哉、どうしたって失ってから初めて気づくのが人類共通の性なんだろうから、このあとには今よりもっとやさしい世界が待っていると信じたい。し、そうしていかなきゃだよね、と思う。


はやく、会いたい人に会いたいね。

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