カンボジア田舎1

知らぬが仏、か


note、随分ご無沙汰してしまった!よくない!

この頃、なんだかnoteの敷居を必要以上に高く感じてしまっていたけれど(よほど感情が昂ったときでないと書けない、人様が時間を使って読むのだからきちんと推敲して、ひとつの”作品”にせねばならない、てな感じで無駄に首を絞めていた)、久しぶりにちゃんと書きたいことができたので、書きます…!

noteももっと気楽に、日記感覚で続けられるようになりたい…。


話したくて仕方なかったこととは。さっき読み終えた、伊勢華子さんの「ひとつのせかいちず」という本がとてもよかったのです。

画像1

https://www.amazon.co.jp/dp/4594041574/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_9C310C48JJ0S4HF553MV

ふだん、読む本にはおかんお手製のブックカバーか、わたしお手製のマリメッコの気に入った柄をプリントアウトした紙をカバーとしてかけているんだけど、この本はカバー不要なほど装丁が可愛くて紙質も丈夫で、持っているだけで幸せだった…。

画像2


伊勢さんは世界を回り、延べ122人の子供に「心に想う世界地図」と描いてもらったという。


おこがましいのを百も承知で言うと、この本を手に取った瞬間、真っ先に感じたことは、学生時代に私がプノンペンでしてたこととそっくりやん…?ということだった。

けれど、本を読み進めれば読み進めるほど、そんなことを一瞬でも思った自分が恥ずかしく、みるみるとてつもない後悔に襲われた。


画像3

画像4

画像5

大学四年生の時、私はプノンペンで「あなたが描く、この街の理想の姿は?」を尋ねて子供たちに絵を描いてもらった。けれど悲しき哉、これらの絵を描いてくれた子たちそれぞれが、どんな名前だったか、どんな表情をしていたか、その時どんな想いだったのか、まるで覚えていないのだ。

覚えていないというより、その時でさえ、おそらく感じようとしていなかった。


なぜ彼女は太陽を描く時、山から顔を覗かせるようにして描くのか、なぜ青色の色鉛筆があるというのに川の色は灰色なのか、彼の目にはそう見えているのか、日本語を学んでいるとはいえすぐに「しんかんせん」とスラスラ平仮名で書けるとは一体毎日何時間勉強しているのか、「街の絵を描いて」と言ったのに、彼女はなぜ「I love you」とさえずる鳥を描いたのか。どれだけ愛に満ちた心を持っているのか。


・・・今であれば聞きたいこと、知りたいことが山ほどある。でも当時、22歳のわたしは子どもたちが描いてくれた絵を「定量的」に見て、レポートを仕上げるのに必死だった。なんてもったいないことをしたんだろう、と取り返せない過去の自分にひどく落胆した。


その点、「ひとつのせかいちず」がすごいのは、122人もの子供が描いた世界地図のすべてに、絵のタイトルと名前と年齢と顔写真まで!ついているのだ。

伊勢さんにとっては、属性でいっしょくたにせず、一人ひとりの瞳を見つめることは当たり前のことだったんだろう。


本の中には、子供たちの絵だけでなく、心に留めておきたい言葉がいくつもあった。

備忘録として3つほど書き留めておく。


その1。

誕生日には、不思議と友だちの顏が浮かぶ。ひとりは、どんなときも心を支えてくれた友だち。もうひとりは、人はこんなにもやさしくなれるのだと教えてくれた友だち。そして最後は、心は想うよりも繊細で深いものだと気づかせてくれた友だち。3人とも、今の私をつくってくれたかけがえのない友だちである。日々、こまめに連絡をとりあうわけではないので久しく話をしていないけれど、その友だちとゆかりのある道を歩いたり、美しいものをみたとき、どうしているかと恋しくなる。

この頃、人との出会いによって自分はつくられているな、ちょっとずつ人生が進んでいくな、という感覚が強く、今周りにいてくれている人を思うと痛いほど愛おしくて、泣きそうになることが少なくない。(本当に、びっくりするほどこの頃涙もろい。)


「こまめに連絡をとりあうわけではないので」にも全くもって同感で、想いの深さと連絡の頻度は比例しないとつねづね思う。頻繁に連絡を取り合わなくても、会わない期間がつづいても、思い出さないわけじゃない。「あなたが頑張ってるから私も頑張るね」とお互い秘かに想い合えたならどんなに素敵だろう。


人生を前に進めてくれるのは、いつだって出会った人だ。この本を知ったのも、宣伝会議の講座で過去イチ面白かった伊藤剛さんのことを調べていたら、芋づる式に繋がって伊勢華子さんのこの本に辿り着いた。


その2。

バンをおりる。配給物質に人だかりができている。箱があいた途端に奪いあう人の群れに、目をそらそうとする自分の弱さを知る。生きることに私は親しくなりすぎていた。

臆病な私はドキッとさせられた。わたしは元々、世界の美しい部分、楽しい部分、陽の当たる方しか見たくない人間だ。排水溝の裏みたいな、どうせ汚いんだから暗いんだから、見なくて済むなら知らなくていいじゃんって蓋を閉じた。だって、現実を直視するってしんどいから。心が引っ張られて、持っていかれちゃうから。

人生一回きりなんだから、楽しいことだけ考えていようよ!その方がヘルシーじゃん!って、そう、思っていた。


けれど、何がきっかけかはわからないけれど、「きれいなこと」よりも「現実を現実としてそのまま知りたい」という好奇心がここ1年、すごく強くなった。

タモリさんが言った「人間にはすきという感情があるから戦争はなくならない」は真理だと思っていて、どうしたって愛と憎しみは表裏一体で。だからこそ、自分の、他人の弱い部分も、醜い部分も、愛しているからこそ目を覆わずに直視したい。

前向きに生きるのは楽だけど(私はとてもそう思う)、事実を事実のまま受け止めないと何も変わらない。

画像6

画像7


その3。

木々のあいだをなめらかに通り過ぎた朝風は、髪へと伝う。その風の心地よさに、別の世界と時間を生きているような浮遊感に誘われる。やわらかく包まれているとき、もうなにもいらないとさえ思えるのは、根底に流れる人間の本能かもしれない。

友達と肩を並べて腰を下ろして、ポケーっとくだらない話をしてたらふわっと風が髪に絡んだとき。これ以上の平和はありませんって気持ちになる。

プロポーズは、草原でふたり寝ころび風を感じながらさりげなく~!!という甘いドリームが一層強くなりました。はい。


で、この本の面白いのが、「あなたは、どんな世界地図を描きますか?」と最後に空白のページが用意されているのだ。せっかくなのでアヤコ(25)も描いてみた。

そこで自分から生まれた絵が、自分でもびっくりするくらい残酷で。


絵のタイトルは「知らぬが仏」。

紙の中央には大きな川が跨り、世界がふたつに分断されている。川には橋など架かっていないから決して向こうの世界に渡ることができない。北の世界の人々も、南の世界の人々も、各々笑ったり泣いたりしている。

本を読んでいる間は漠然と、「私だったらなんだろ、みんなが手をつないでたりするかんじ?」と薄ぼんやりと思っていた。

けれど、私自身は世界をそんなまなざしで見ていたのかと。




日常は、身の回り半径5mくらいのことで精いっぱいなんだから、その圏内の平和を保てればいい。しあわせを守れればいい。

見ようとしなければ見えない他の世界を知るから、「私だけこんないい暮らしをしてるなんて!あきまへん!」と罪の意識が芽生えるし、一方では「なんで私だけこんな苦しい思いしなきゃいけないのよ!ふぁっく!!」となる人もいる。


世界平和を願うのであればまずは家庭内の平和をば、は間違いなくその通りなのだけれど。


なのだけれど、そうは言っても、「知らぬが仏」と無関心を貫いたままで、平穏な心で生き続けられるんだろうか。

だって、一人で生きてきたわけじゃないのにひとり占めなんて変だもん。

世界もわたしもままなりません。


今日は迷った挙句選んだ映画、『マンマミーアヒアウィーゴー』がとてもよかったのでサントラを聴いて寝ます。リリージェームズちゃん、本当にかわいい。

欧米のカルチャーを誰にも咎められず享受できる時代と国に生まれて、わたしは幸せです。


#日記

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?