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育児と教育(元教員が子育てに考えること)

こんにちは。ぶんちゃです。
2歳半間近の娘の母です。

出産前は教員として働き、出産して育児中心の生活のために退職。
現在は娘を自宅保育&一時預かりの活用をしながら在宅ワークという形をとっています。

教員という仕事を辞めて在宅ワークに切り替えた理由は、家族との時間を最優先にするため。

これまでの記事を読んでくださっている方はご存知のように、娘は発達障害の可能性を示唆されています。
現在、診断に向けて、病院の予約待ちです。(初診まで半年以上あります💦)

診断を受けたとして、何かしらのフォローや療育をする。
そうなった時に、フルタイム勤務ができるのか。

私は教育者として、教育に全うし、尚且つ我が子の教育の保証もできるのか。

悩んだ結果、今は娘中心にするために、教員を辞める決断をしました。
いずれまた、現場に戻れたらいいな、とは思っていますが、今戻ると、
クラスも我が子も中途半端になりそうで。

それだけはやりたくないと思いました。

娘中心の生活にして何をする?

では、娘中心にしたとして、何か娘に教育するのか?
実は、特別なことはしていないし、考えていません。

ただただ、これまで通り、娘の成長を見守り、必要に応じた声かけをしていこうと思っています。

ただ、教員を辞めてまで、娘を見守る意味・理由について、今日はまとめてみようと思います。

子育てにおける見守り

見守るってどうすることだと思いますか?
・子どもが遊ぶ姿を、見る
・子どもの隣で一緒に遊ぶ
・自宅保育だから、家にいるしかない

私は、基本的に」子どもが遊ぶ姿を見る」なんです。
え?一緒に遊ばないの?それって育児?教育?しつけは?
と思われるでしょうか?

ちゃんと意図もあります。

子どもの遊びって、声かけによって思考を邪魔することがあります。
特にまだ2歳。言葉もまだ少ないし、頭の中のイメージだけで遊びが進みます。
双方向のやり取りはまだ難しい時期です。(速い子だとコミュニケーション取れるのかな?)
とりあえず、娘はまだ、基本的に1人で没頭したいタイプ。

本人が見て欲しい時・一緒にやりたいときは
「きて」「見て」
が言えるようになったので、呼ばれるまでは話しかけないし、見てるだけ。

没頭している間に、どんどんシナプスを刺激するし、いろんな発想・実験を繰り返します。
イタズラなんて、特に頭をフル回転しています。
危険なことでない限り、基本的には見守りです。

危険でなくても、後が大変になりそうな場合は、流石にちらっと
「何が始まるのか、ママはドキドキしてるよ」
ってママの存在を示しますが。笑

ひたすら一緒にいて、一緒に遊んで、言葉を喋って欲しくいろんな声かけをしていた頃は癇癪も多いし(今もまだ多いけど)、遊びが30秒ごとに変わるし(今もいろんなおもちゃを広げながら遊ぶけど)、何より、全然喋らなかったのです。

それを、ちょっと考え方を変えて、1人で遊び出したら離れて見るだけに。
絵本を持ってきたり、ものを差し出すまでは、無闇にこちらから話さないように。

すると、少しずつ
遊びに集中する時間が増えた(今では1時間ぐらい熱中して遊べる)
「これ何?」と聞けるようになりました。
何より、爆発的に物の名前を自分からいうようにも。
指差しも、全くしなかったけど、名前を言ったり、聞いたりしながらできるように。


母の反省点

私は、教育者だったからか、潜在的に「教えたい」想いが強い。
それに、「教育者だから、しっかり子どもに教えなきゃ」とも考えていたんだと思います。
見守る重要性を仕事ではすっごく感じて、手を出しすぎないようにしていたはずなのに、子育てになった途端、あれもこれも世話を焼きまくっていた自分に気づきました。
今一度、教育者として大事にしてきたことをいく時にもそのまま当てはめようと決意しました。

子育てにおける教育

今はモンテッソーリ教育・とかベビーパークのような習い事・色々ありますよね。
我が家は何もしてません。
特にするつもりもありません。
強いていうなら「こどもちゃれんじ」はしています。
でも、それを使ってしっかりおもちゃで遊ばせたり、シール貼りをさせたりはしていません。

本人が遊びたいなら遊ぶ。
シールも、初めて開くときに絵本を読みながら
「貼ってみる?」
と声をかけて、シールを渡すだけで、実際に貼るのは違うページでも顔でもなんでもOK。
正しい貼る場所なんてないと思っています。

私がチャレンジのシール貼りで大事にしているのは
・シールを台紙から剥がす
・どこかにしっかり貼り付ける

それは、指先の巧緻性に繋がるし、貼る場所を自分なりに思考できたら、絵本に貼らなくても今は問題ないと捉えます。

他のおもちゃも同じ考えで、動画や本で使い方も載ってますが、別にその通りにしなくても自分なりにいろんな想像を広げて遊んでいれば、それでいいと思っています。

我が家はモンテッソーリ教育をしているつもりはありませんが、
思想としては近いのかな?と思います。

本人の興味に合わせて。好きを見つけて好きをのばす。

教員として学級経営もこの考え方は変わりませんでした。
毎年学級初めには
「一人一人の好きや得意を、見つけあい・認め合える。
 そうして、クラスの仲間がそれぞれの好きを伸ばし合える
 そんな居心地のいいクラスにしたい」
こういった思いを、学年やクラスの雰囲気に合わせた言葉で伝えていました。

仲良しとか、全力とか、そう言ったことはあまり言いたくなくて。
だって、40人もいてみんな仲良くって、無理ですよね。
あんなに、授業パンパンで全力とか、わたしも無理。

だから、みんなが心地よく過ごせるがモットーでした。

それを我が子にも伝えたい。

家が、家族が
「自分の好きを認めてくれる、好きが伸ばせる、居心地のいい場所」
であってくれれば、それが1番です。

まとめ

育児って、難しいし、思うようにいかないし、イラッとすることも多いけど。
根底にあるのは「我が子に幸せでいてほしい」だと思うんです。
それをするには、難しい何かをするとか、必死になって何かを教えるのではなく、
子どもの潜在的な力を信じて、引き出すお手伝いをすることなのかな。
決して親の操り人形ではない。「こうしたい、ああしたい」は子どもが思うことであって、親が思うことではない。と思っています。

娘は発達障害かもしれないけど、それでも、わたしは我が子を世界一可愛いと思うし、世界一賢くて、世界一の好きを見つけられると信じています。

だから、わたしより高く積み木を積めるし、わたしよりたくさんの車を知っています。
ごめんねは言うの得意じゃないけど、それでもダメなことを反省しようと自分なりに向き合っているのを知っています。
まだ、うまく話せないだけ。衝動的にやってしまうだけ。
それをフォローして、見守って、何より、これからの成長を信じる。
期待はしません。でも、子どもを信じることをやめません。


これがわたしの教育観です。


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