生きたい

外に出たら、そこそこ愛した男が乗っていた車と同じ車を見かけた。街中ではあまり見かけない車種で、車に詳しくない私はそれがなんという車なのか未だにわからない。何度も教えてもらったけど私はいつまでも覚えなくて、その車をレイちゃんと呼んでいた。由来は忘れた。
私はその男をそこそこ愛していた気がするし、しかしその感情はその車を見かけるまで忘れてしまっていた。助手席で私が眠っているときその男は私の頭を撫でていたし、ハンドルを握りながらいつも私の髪を指に絡めて慈しんでいた。そのとき私は今より髪が長かった。運転の丁寧な男だった。好きだった。
あのときの私はとても可愛かったし、今の私はぼろぼろだ。
その車を見かけたとき、私はろくに風呂に入っておらず、顔も洗っておらず、部屋着とも呼べないようなTシャツとズボンを身に着けてかろうじてコンビニに向かっていた。生活の一切合切がままならず、私は、食料を持参した友人が我が家まで来て掃除や洗濯をしてくれたことでかろうじて文化的生活を維持していた。
その男への未練はないが、可愛い私への未練はある。
私はいなくなった男に執着なんてしたくないが、しかし、こんなふとした瞬間に思い出して感傷に浸るような他愛もない人間だ。普段は偉そうな口をきいているが、男に去られたら駅で号泣するし、しばらくは泣いて暮らすし、失恋のたびに世界が滅んだような錯覚に襲われる。それが錯覚であると知りながらもついつい恋愛の四苦八苦に浸ってしまう、つまらない人間だ。
私はインターネットの他者が思うよりもずっと普通のくだらない女だと思う。

インターネットでは不幸が映える。
わたしは不幸ぶっている。本当はたぶんそんなに不幸じゃない。五体満足だし、家族仲は良好だし、友達もいる。犬も可愛い。ごはんを食べていけていて、運動することもできる。

不幸ぶっているだけのはずなのに、なぜ、私はこんなに消え去りたいんだろうか。
自死を望んでいるわけではない。はじめからいなかったかのように消え去りたいのだ。自死に伴う、他人へかける迷惑などこれっぽっちも望んでいない。
実行して、それが成功しても失敗しても、他人におおきな迷惑をかけてしまう。私は誰かに迷惑をかけたいわけではない。これを私は前回の実行時に痛感した。
私は私を愛してくれるひとを悲しませたいわけではない。私は、恵まれているから、私が愛していて私を愛してくれる他者の存在を日々実感している。彼ら彼女らを無闇矢鱈に傷つけて悲しませたいわけではないのだ。

消え去りたいという感情は辛い。生まれてきたくはなかったが、その言葉を口にしたら悲しむ他者がいる。私は父母を愛している。傷つけたくない。
しかし、生きていることに付随する四苦八苦に、これ以上耐えられそうにもない。
私は人生をちょっとチートしてきた。その皺寄せを今になってかんじていて、そして人生における様々な問題に対してその都度頑張って対処してきたつもりだが、問題はまたすぐに現れる。キリがなく、多面的で、立ち向かえそうにない。
諦めたら脱落するだけだ。この社会にセーフティーネットが機能していないならば、脱落は、歩みをとめることは、社会的な死を意味するしそれはじきに肉体的な死を意味する。
これ以上どう歩き続けろというのか?でも死は許されていないから歩くしかない。でももうこれ以上は本当に無理なのだ。なにもできない。閉塞感と孤独感。私はとても弱い。

私は強くはなれないし、しかしこの弱さを逆手にインターネットでキャラクターになれるようなぶっ飛び方もない。私は結構普通の女で、男にフラれたくらいで世界が滅亡しているのだ。つまらん人間でごめんな。

私が物心ついたときからずっと存在する「消え去りたい」という感情は、ずっと処理できない。思考がぐるぐるぐるぐるぐるぐる回ると、いつも解答はひとつしか出てこない。その解答を必死にかきけしながら、風呂にも入らず、可愛くもない身体で、どうにかこうにか命をつなごうとする。
解答はいつもひとつしかない。その解答に縋りたくなる。それを早く選びたい。選んですべてどうにかしたい。
いまこの瞬間もその解答を選びたくて仕方がない。いますぐにここで人生の答えを出したい。私の答えはこれだった、ごめん、で終わらせられたらなんて楽なんだろう。でもそれは許されていない。私は愛する人を傷つけたくない。はじめから私が存在していなかったことにできないのならば、その解答は選んではいけない。理性が必死に稼働する。キャパシティを超えて、心臓がばこばこ鳴りながら、どうにかこうにか私の形を維持するために必死になっている。消え去りたい。溶けたい。はじめからいなかったひとになりたい。なれないから、どうにかするしかない。やっぱり私は生きたいっぽいです。今回も生き延びたい。

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