人間であることに疲れたらゴア映画を観る(2023/5/14の日記)

私は自分の容姿を恐らく未だに受け入れ切れていない。ルッキズムもエイジズムも、あらゆる人が逃れるべき呪いであると思いながら、とはいってもわたし自身が逃れることができていない。もっと可愛くなれるものならなりたいし、これ以上歳をとりたくない。皺もシミも増えていくのが恐いし、もっともっと痩せたい。石や植物に生まれていたらこんな思いをせずにすんだのに……と思う。犬や猫でもいい。犬や猫ほどの高い知能があっても、それでもこんな悩みを持って呪縛に苦しむことはないだろう。人間であるせいで四苦八苦することが多すぎる。
容姿だけではなく、金も、人間関係も、恋愛も、勉学も、政治も、差別も、なんでも、人間であるせいで苦しむことが多すぎる。
そして現代には情報が多すぎる。いつも脳はキャパオーバーで熱を持っている。雑多な情報の氾濫で脳みそが溶けて、感受性や動物的な感覚が全てカスカスになっている感じがする。カスカスのスカスカ。もっと豊潤であったはずの五感が摩耗してどうにもならなくなっていく感覚。
落ち込むというか、気が滅入る。何のための生命であるか分からなくなっていく。どんより沈んでいく。人間であるせいで疲れて人間性を失っていくのだ。
そんなときに前向きでハッピーなフィクションなんて観たら余計に気持ちが落ちていってしまう。気づいたら、小さな赤ちゃんと子犬がころころ戯れている動画を観ると笑うのではなく泣いてしまう年齢になった。無邪気に明るいものは余計にこちらを刺してくる。
その点、グリーンインフェルノは良い。落ち込んでいるときに観たら体の芯の部分がまた熱を持ち始めて心が浮上していくような感覚を得る。テリファーでも食人族でもSAWでも何でも良い。アッパー系のゴア映画は元気を与えてくれる。
私がそもそもゴア映画が好きだから元気になるというのももちろんあるだろうが、恐らくそれ以上に、ゴア映画ではとことん人間が人間の尊厳を失って徹底的に破壊されているから気持ちいいのだと思う。人間であることに疲れたときに観ると解放感があるのだ。鬱屈と狭い部屋に閉じ込められた状態から、広い世界に突然出てきたような軽やかさがある。元気になる。元気になるのだ。ゴア映画はそういう作用がある。人体破壊は良いことだ。
セルビアン・フィルムのような暗い気持ちになるスプラッターはどうなのかと言われたら、別にそれはそれでいい。テリファーや哭悲のようにひたすらアッパーなゴアが続くのがもっとも望ましいが、気が滅入るようなゴア映画であっても、少なくとも「明るくて前向きでハッピーになれる名作映画」よりはずっと私に元気を与えてくれる。
落ちているときに観る「明るくて前向きでハッピーになれる名作映画」は本当に苦手だ。性欲を抱いていないときにレイプものAVを見せられて無理矢理オナニーしろと強要されているような、そういう死にたさが襲ってくる。あれは本当にキツい。死んじゃいたくなる。ネットの雑なまとめ記事によくある「落ち込んでいるときに観たい!オススメ映画10選☆」みたいなやつ、あれは私からすると自死の幇助みたいなもんだ。残酷だ。暴力だ。落ちているときに人生の美しさなんて説かないでほしい。人間の素晴らしさなんて謳わないでほしい。
ゴア映画は人間を滅茶苦茶にしてくれる。だから元気が出るのだ。

そもそも私はなぜ映画館で映画を観るのかと聞かれたら、2時間だけ「私」でいることを辞めるためだ。映画館で観るとスマホをさわれなくなるから良いと多くの映画好きは言うし、私もそれを映画館の利点としてとらえている。スマホの情報量に触れることもなく、ただ映画だけに集中して「無」でいられるのだ。そしてその先に「私」を辞められるということがある。何も私は世間的に重要な人物でもないし、我が身より大事にして守るべき子供がいて母親業に追われているわけでもない。それなりに自由に生きているはずだが、それでも、「私」という人間であることに疲れてしまって、有象無象の存在として風景に没入してしまいたくなるときがある。

映画は多くの「感情」を与えてくる。なにかを思って、考えてしまう。人間らしい営みであるが、しかし同時に、個の人間であることを辞めさせてもくれるのだ。
これからも私を赦してほしい、あらゆる人体破壊で。

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