木を隠すなら森の中、殺人を隠すなら世界滅亡の中/『ノック 終末の訪問者』感想(2023/4/13の日記)

私は先日の日記でも、そして常日頃のツイッターなどでも、「よく分からないもの」が好きだという話をしている。好きというか、求めているというか、焦がれているというか、願っているというか。
そうなると必然的に不条理スリラーも好きになるわけで、不条理スリラーが好きなら当然シャマラン監督の映画も好きだ。

(というわけでシャマランの新作『ノック 終末の訪問者』を観てきたよという話です。観たのは3日ほど前ですが……。ネタバレを含むかもしれないので念のため注意願います。)

映画全体についての感想は気力があれば映画備忘録でまたまとめると思うので、ノックを観てぼんやりと断片的に思ったことを日記としてとりとめなく書き記していく。

本作に対して「さすがにポリコレすぎてキツいっす」という意見も散見された。ゲイカップルと口唇口蓋裂の治療歴のある中国系の養子という設定は、たしかにそれだけを見れば「ポリコレを意識した」とも思うし、エンタメの世界に入り込むポリコレをよく思わない人が多いというのも分かる。(その作品にあった純粋なエンタメ性が損なわれると捉える心理であり、これは大衆的な娯楽作品に政治的メッセージや作者の思想が強く出たときに視聴者が強い拒否反応を示すのと同様だと思う)
だが本作において重要な要素は「自主的な選択」だ。
「小屋にやってきた謎の男女」は、主人公たちに、世界を救うために家族の中で犠牲になる(殺される)者を自らの意思で1人選ばねばならないと告げる。そして謎の男女たちはその決断に干渉できないし、彼らがその犠牲者を殺すこともできない。全てはあくまで主人公たちの「自主的な選択」そして「自主的な行使」に委ねられている。
ここで、主人公たちが従来通りに男女カップルとその実子であったならば、この要素は消化不良でうまく生かされなくなってしまうと思う。
あくまでも血のつながりの一切ない他人同士であり、さらにその選択を周りから支援されていない(場合によっては否定されジャマされる)者たちが、「自主的な選択」で家族になった。そういう成り立ちの家族であるからこそこの映画の大前提としての設定は生きてくるのではないか。
中国人の養子が「口唇口蓋裂」であったと思われることも示唆的だ。映画的なドラマチックさを求めるならば、定石は心臓病や手足の障害だ。口唇口蓋裂は見た目には多少のインパクトがあるが、心臓病のようにすぐさま命に関わるものでもなく、親がその治療の程度を決めていく。ある程度子供が成長すればその子供の意思も反映されていく。その治療は人によっては20年ほどかけて何度も何度もトライして進めていくこともあるらしい。これもまた「自主的な選択」の象徴と言える。
作中にあった、主人公たちの親が2人の関係を歓迎していないような描写はただのゲイとしてのエピソードではなく、この「選択」の自主性を強調するために描かれている。また「謎の男女」のうちの1人がかつてバーで主人公たちを襲った男であるというエピソードも、もちろん「この男が一味にいるということはそもそも全てが以前から仕組まれていた計画なのではないか?」という疑いの過程を描くスリラー的要素として機能しているが、その襲撃が2人が養子を迎える話をしていたシーンであることを考えると、やはり、主人公たちの自主的な選択を際立たせるものとしても機能している。
ゆえに本作ではただ「ポリコレ」だからゲイと中国人を用意したのではなくて、必要な設定であったと私は思っている。そしてまた、むしろ昨今のポリコレムーブでLGBTや有色人種の描写を(以前よりは明らかに)求められている以上、それを逆手にとって、LGBTと有色人種を絶対に描く必要のある映画をシャマランが作ってみたのではないか?とも思っている。

また、話は少し脱線するが、仮にポリコレのために特に必要のないゲイ要素と中国人キャストを用意したからといって、白人カップルとその実子であった場合と話の本筋が何も変わらないのであれば、ポリコレしまくってもいいじゃないかとも思う。
平等と公平は違う。それまで地位の低かったものの地位を、地位の高かったものと同じところまで持って行くには、絶対に下駄が必要だ。何も肌が黒いだけの無能を採用しろとか、性格の悪いゲイを聖人君子として扱えと言っているわけではない。女性の役職員採用率の話でもよく言われるが、とにかくスタートダッシュは多少むりにでも下駄を履かせる必要があるのも事実だ。でないと永遠に白人/男性/ストレートに追いつくことができない。追いついてようやくそのとき初めてフラットな対話が成し遂げられるから。
なので、シャマランという世界的に著名な監督がポリコレったところで、別にいいじゃんと思うのだ。それで世界観がぶち壊しになるわけでもなし。脚本の正当性が失われるわけでもなし。どうせ何も変わらないのなら、ポリコレったほうの選択をするのだって別にアリだと思う。

本作については必要だと求められて存在している「ゲイカップルと中国人の養子」であったと思うが。

また別件。
私は不条理系が好きだが、ひとつモヤモヤするものとして、映画の中では良い感じにまとまってはいるが現実的に残ってしまった不可解な現象や不可解な死は全てこのあと生き残った主人公のせいになってしまうのではないか?という懸念がある。不条理に限らず、特にホラーなどではこのモヤモヤがすごく大きくなる。ばったばったと人々をとり殺していた幽霊を払えたのはいいとして、実際問題発生してしまった登場人物たちの不可解な死は、生き残った主人公のせいにされるんじゃないだろうか?SF、スリラー、ホラー、私が好むジャンルの映画ではどうしてもそういう「モヤモヤ」を切り離すことができない。
この映画ではあらすじからお察しの通り、当然人が死ぬ。当然人が死ぬしその死は法律上「殺人」に該当するものなので、通常のスリラーであれば生き残った主人公たちは警察により殺人の罪で追及されてしまうだろう(実際に手を下したのは主人公たちではないし一切加担もしていないが状況的に彼らが犯人となってしまうのは避けられない)。最終的に主人公たちの家は燃えてしまったので、遺体が見つからなかったとしても、「小屋にやってきた謎の男女」はすべて行方不明扱いとなってしまう。どう考えても警察が捜査をしたら主人公たちに行き着いてしまう。
だがこの映画は、そもそも人類が滅亡しかけたので、ささいな殺人や行方不明など全く表に出る心配がないのだ。だってすでに災害・事故・疫病でとんでもない死者が発生していて、地は燃えさかり人々は逃げ惑い、滅亡寸前なのだ。話の本筋とは関係ない、いったいどんなところで安堵しているんだという話だが、日頃「このエンドロールのあと、主人公って捕まったりしないのかな……生活とか人生とか滅茶苦茶になっちゃうんじゃ……ハッピーエンドっぽく締めてるけどこの後を考えたら全然ハッピーエンドじゃなくない……?」とモヤモヤしたまま映画館を後にする人間としては、この安心感は強烈だった。
そもそもこの映画は、山奥の家の中ですべてが完結している。ワンシチュエーションといっても差し支えないほどに作中の殆どが家の中だけで描かれ、その小さな空間と対比させられるように世界の滅亡が描かれる。小さな空間での一般人の決断が世界を救うか滅ぼすかを決定するというシナリオだ。
ゆえに、小さな空間で起きた連続的な死が、世界規模での滅亡に覆われて有耶無耶になるというのは、対比的な構図としてもものすごくクールだと思ったのだ。
殺人を隠すなら滅亡のなか。
マクロな大風呂敷を広げてミクロな人形劇をするというのはシャマランらしいとも言えるんじゃないか。

おもれ~映画!

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