そもそも処女を"卒業"するという表現がよくないよね、世間(2023/8/24の日記)

先日、高校1年生だというフォロワーから「いつまで自分は処女なんだろう。処女卒業できるのかな」という旨の投稿が寄せられた。私はそれに対して「まんこにちんこ出し入れしたかどうかで人間の価値は揺らがねーよ」と返したのだが、ポストを押下したあと、「この人の聞きたい回答ではないだろうな」と思った。私は私のこの回答を間違っているとは思わないが、しかしこれは処女ではない25歳成人女性だから納得のいく回答になっているだけで、15歳16歳の女の子には「そういうことでもないんだよな」と思われてしまう気がする。

まずそもそも私は処女という言葉が好きではない。性交経験のない女性を指す言葉として現状これ以外に相応しいものがないので用いてはいるが、処女膜なんていう謎の概念があるように、ペニスを膣に挿入することそのものが性交として定義づけられているようで、「処女」って言葉がちんこを介した言葉のように思えていまいち納得できないのだ。レズビアンの女性が膣にペニスを挿入したことがなくても、女性と性行為を何度も重ねているのならば、それは「処女」とは言いがたいと思うのだが、なんとなくこの「処女」という言葉に込められたぼんやりとした抑圧性を感じてしまう。

私の思想はさておくとしても、「処女」の抑圧性というものは実際にあると思う。
思い返せば、私も確かに高校生くらいのとき、「処女であるか否か」は女子たちの間で、言葉にはしないが空気感として水面下で探り合うような雰囲気があった。もの凄く軽く言ってしまうと、処女ってダサいのだ。
私はある程度の進学校と呼ばれる高校に通っていたので、何も田舎のヤンキー校だからそういう「ダサいよね」があったわけではない。私の時は、そして今も、たぶんなんとなく処女ってダサいのだ。

童貞もよくからかわれるかもしれないが、処女とはベクトルが違う。童貞は「捨てる」と表現されるように、世界中の男子が必ず通過するイニシエーションとして、捨てることを強要される圧がある。まあその気になれば風俗で捨てることもできる。(私がそれを推奨しているわけではない)
「童貞の王」みたいなキャラの男性がいつの時代も登場するように、30歳を超えたら魔法使いになるように、普通は捨ててしまうからこそあえて守っている男は「逆にかっこいい」のだ。
(もちろん個人的には童貞いじりとかその根本にあるホモソとマチズモとかは好きではないし、男性も楽になってくれ~と思うけど、ここでは一旦それは置いておく。)

一方で処女は「捧げる」ものと表現されてきた。清純でうつくしいモチーフであり、浪漫として、信仰すらされてきた。捧げるものであるからこそ価値があり、男性の童貞いじりのような女性同士での「処女いじり」は一般的場面ではおおよそ発生しないが、「処女」はある一定の年齢に達すると「選ばれなかった人」みたいに様変わりしてしまう。自ら性行為を避けていたわけではなく、恋人が欲しいと思っていたにもかかわらず処女であり続ける女性は、選ばれなかったのだ。キショい表現に「処女膜が腐る」とか「蜘蛛の巣が張る」とかがある。キショいね。でも要するに、うつくしく価値があり「捧げる」ものであるからこそ、反転すればあっという間に「グロくてダサいもの」になってしまうのだ。
これはそもそも、長らく女性のパターンが「聖母」か「娼婦」しかなかった――そして神聖視は相手を人間扱いしていないという点で蔑視と変わらないのだというフェミニズムの話にもなっていくのだが、話が長くなってしまうのでここではまた一旦置いておく。

とにかく最初の話に戻ると、小難しい話は置いておくにしても、かつて私が高校生だったときにみんなに「処女である焦り」があったことは間違いないことだ。
それは大学へ進学すると、加齢とともに焦りは増すのかと思いきや、そうでもなくなった。大学、そして社会人。私の周りには「マジで男となんかつがいたくねえ」という固い意志で彼氏を作らない子もいれば、そんな固い意志はないけれど彼氏いない歴イコール年齢の子もいる。彼女らが焦っているかといえば、そんなことは決してない。
子供から大人になって広い世界に出てたくさんの価値観と出会って良くも悪くも「色んな人がいるな……」と思う機会が増えると、マジで処女とかどうとかがいかに価値のない物差しであるかを実感する――というよりもむしろそういう物差しが中高生のときに存在していたことを忘れてしまうのだ。当時の肌感も思い出せなくなって、現に私も先日の投稿を読んで「ああ、そういえばそういうのあったな」とふと思い出したくらいだ。

このとりとめのない日記で何を言いたいかと言うと、特に主義主張はないのだが、いま高校生のフォロワーに「わりとマジでそれってどうでもよくなるよ」と実感をもって伝えたいだけだ。
もちろん大人になっても処女の劣等感にさいなまれているひともいるにはいるのだが、その人たちの劣等感の原因は「まんこにちんこを出し入れしたか」ではなく「誰かに選ばれたいのに誰にも選ばれなかった」という自意識だ。そしてそれは恋愛においてのみ発生するものではなくもっと幼少期からの根本的な部分から根ざしているものだろうから、処女であるか否かは実質的には関係ないと思う。
好きな人ができて自然とセックスを望むならすればいいし、好きな人ができてもセックスを望まないならしなければいいし、好きではなくてもセックスを楽しみたいなら謳歌すればいいし、そもそも誰のことも好きにならないならそれでもいいし、結構みんな社会のなかでフリーダムに生きてる感じはある。わりとみんな雑に生きてるな、というのが25歳の所感だ。

こんなことを書いたとて、高校生の息苦しさの救いにはまったくならないと思う。私もかつて高校生だったから分かる。具体的には分からないがあらゆることで息苦しくてたまらなかった。大人からの「大人になったら結構ラクだよ」という客観的な声も息苦しくてたまらなくて目先のことを追って生きるのが精一杯だった。
ゆえにこのとりとめのない日記でくだんのフォロワーの息苦しさの解消になるなんて偉そうなことはまったく思っていないのだが、高校1年生といえばまだ15歳16歳――私からすればまだ幼い子供であるのにも関わらず「処女がどう」とかでせっかくの楽しいことを取り損なってしまうと切ないなあと思い、まあ、ほんの僅かでも「大人になったら結構ラクっぽい」と思ってほしいなという少しの希望的観測がある。

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