自尊感情/BLをホモと呼称するしぐさ(2023/6/5の日記)

●普通の自尊感情

もしも私が“中流家庭”の白人男性に生まれていたら、果たして己の特権に能動的に気づくことができるのだろうかと思うときがある。上流階級ではなく中流階級であることが重要で、自分自身のことを「まあ普通だよね」と思っている人間が他者より生まれつき優位なカードを持っていることに、果たして自ら気づけるのだろうか。学校教育を通して人種差別や性差別について学ぶことは多い時代になったが、しかし、日々を生きていて、恵まれている人間は恵まれていることに自ら気づくことは難しい。
私は視力が生まれつき良いので、生まれつき視力の低い人の気持ちが分からない。白杖を持っている人に対して自分が「健常者」であるという自認はあり、全盲・弱視のひとを手助けするのは当然であると学んできてはいるが、「めがねをかけたら見えるけど外したら全てがぼんやりしている」くらいのリアルな視力の弱い人の気持ちは分からないしその人より自分が優位にあるという自覚は日常の中ではない。同様に、例えば、走るのが速い人は車いすの人を気遣うことはあっても、歩くのが遅いだけの人を気遣うことは少ないだろう。
自分が人生における何かの場面で特権カードを持っているのかもしれないと認識しだしたのは20歳近くなってからだと思う。実際にそのカードの内容は知らない。持っている人間は持っていることを当然だと認識しているからその優位性に気づけない。私が女として「男性の無自覚な優位性」を目の当たりにする機会が増えるにつれ、もしかすると自分も何かの場面においては同じように無自覚な優位性を保持して誰かを傷つけているかもしれないと思うようになった。

私は自尊感情が「普通」くらいあると思う。酷いことをいわれたら傷つくし、自分が特別な人間であるとは思わないが、しかし有象無象の人々と同じように社会で生きていっても問題ないと思っているし、家族や友人にとっては可愛くて大事な存在だと思っている。周りの友人たちを見ていてもみんな同じくらいの自尊感情を持ち合わせているので、恐らくこれくらいが「普通」なのだ。普通だけど、その普通は、難の無い家庭環境のなかで親から愛されてそれなりに苦労せずすくすく育ったから得た普通であることもまた自覚しないといけない。
私は私の家庭を普通だと思っている。周りの友人たちの家庭もまた同じような感じだからだ。親に愛されている自覚があるし、両親の不和もなく、金銭で困窮している姿も見たこと無く、一軒家で犬を飼って習い事や塾に通わせてもらって大学の学費を出してもらって大人になった。私はそれを普通だと思っていた、しかし普通を享受できるのはたまたまラッキーだっただけなのだ。
自分の今の「普通くらいの自尊感情」が、たまたま上手く成り立った高度な普通の上にようやく存在していることを自覚しないといけないのだと思う。何かのきっかけで1かけらのピースが取れてしまったらあっけなく「普通」は成り立たなくなる。そういうことは世の中にごまんとある。簡単に「普通」からこぼれ落ちる。私は、私の家庭を自慢しているわけでもなければ、自分の家庭のようではない人を哀れんで優しくしましょうと言っているわけではない。ただ、大人になるにつれ、私に対するある他者の優位性を目の当たりにするたびに、自分が思っている「普通」という優位性を自覚しなければいつか恐ろしいまでにたくさんの人を殺してしまうのではないかと思うようになった。
私はとにかく他人を傷つけるのが恐くて仕方ない。悪意を持って攻撃するのならそれはいっそ構わないのだが、無自覚にひとを傷つけることほど恐ろしいことはない。誰かから見て私が相対的に恵まれているとき、私はそれを自覚することができるのだろうか。私から見て誰かが相対的に恵まれているとき、その人が無自覚に私を殺しかけるのを何度も経験した。たぶん私も何度も誰かを殺しているのかもしれない。生きているのがこわくて仕方ない。


●BLをホモと呼称するしぐさ

インターネットでオタクがたまにやるBLを「ホモ」と呼称するやつ、アレ、ありだと思う?
かつてのネットではそういうのが「オモシロ」だった。それを差別用語だと咎める人は殆どいなかった。私もそうやってBLをホモと呼んでいたと思う。むしろ一般的な腐女子しぐさとして定着してすらいた。
刀剣乱舞がリリースされたときに、イケメンカタログコンテンツであることを艦これをもじって「ほもこれ」と一部で揶揄されていたりした。あのときもまだギリギリ「ブラックジョーク」として成り立っていたような感じもする。
今はふつうにアウトだと思う。BLをホモと呼ぶ人を見ると、うまく言えないが、「あ~そういうタイプの人ね……」と感じてしまう。外国人をかたくなにガイジンと呼んでいる人を見たときにも同じような感情に襲われる。縁を切るほどではないし、直接注意して波風を立てるほどでもないが、なんとなく同族とは思われたくないし「そういうタイプのひとなんだあ……」とぼんやり思う感じ。あのうっすら距離を置く感じ。
まだせめて「差別用語をブラックジョークとして使用してオモシロとして消費していま~す」という自覚があればそれはそれでもう良いのかもしれないが、未だにBLをホモと呼んでいる人の大半はそうではないだろう。
そもそも腐女子という言葉自体も2023年現在においては差別的だと思っている。腐ったものって、なに?男性同士の恋愛マンガは腐ったもので、それを好むのはゲテモノ趣味なのか?当人らが自嘲的に用いた言葉だとしてもやはり時代とともに再考していくべきだと思う。
メンヘラという言葉も、どうなんだろう。少なくとも、他者に向けてその言葉を用いたときにそれは侮蔑的な感じや小馬鹿にする感じが含まれているし、自分自身で名乗るときにそれは自嘲的なニュアンスが含まれている。私は他人に対してその言葉を投げかけたくはないし、自分に対しても名乗りたくない。
でも私はかつてBLをホモと呼んでいた。それを面白いと思っていた。外国人はガイジンだったし、自分をメンヘラと自称していた。その事実を否定しないし当時のツイートや文章をわざわざ消したりはしない。
当時の自分のことを、今の最新のモラリティーで裁かれることを恐れてはいけないのだと思う。
日々トレンドは更新されていく。いまこの瞬間の最新でいちばんイケてる倫理観を、私は常に自分にインストールしてアップデートし続けることはできない。必ず間違い続けるだろうと思うし、そうなることは正直恐い。でもそういうのを恐がってちゃいけないんだろうなあと思う。25歳になって世間の「最新」が自分たちではなくなったことを実感することが増えた。私たちより下の世代が「最新」で、ついていけないことが増えてきた。これからもっともっと増えていく。せめて老害にはなりたくない。だからせめて「最新」に裁かれることを恐がらずにいたい。できたら自分の脳みそでも考えて咀嚼して嚥下できたら嬉しい。どんどん古くなっていくけど、生きるのを頑張ってみたい。

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