陰謀論を笑う私たちの疲れている現実(2023/5/20の日記)

少し前に、現在公開中の映画『MEMORY メモリー』を観た。リーアム・ニーソン主演の老いた腕利きの殺し屋の話だ。そう聞くと、「老いてなおバーサーカー」「舐めてたジジイが実は強かった」というようなカタルシスの映画のように思えるが、実際には、老いてアルツハイマーを患う殺し屋の悲哀が描かれ、薄れ行き曖昧になる「記憶」をキーワードに、保障されない正義の歯がゆさもどかしさが呈されていた。もう少し骨太にも出来たのではないかというきらいもあるものの、思っていた展開とは違う話に、創作物に傷つけられたい欲求を常に抱えるわたしにとっては良い感じに「へこめる」映画だった。
『ハロウィンTHEEND』を観たときと同じような顔になる。あの映画は、街も人も殺人鬼もすべてになんだか疲れ切っていて、アイコン化している有名な殺人鬼の登場するサイコスリラーとしては異質な雰囲気を醸していた。
『メモリー』についてはそこまでではないものの、FBI(警察)も殺し屋も、それぞれの立場から人身売買や児童売春に怒りを燃やし、それぞれの立場でどうにか正義を執行しようと奔走して、しかしその正義は保障されず、立ち消えになり、疲れた顔を浮かべる。
「てめえを殺してやる!」と憤れるうちは健全なのだ。怒りはパワーであり、人類はずっと怒ってきて、その怒りを原動力にあらゆる問題を解決してきた。
私は『ハロウィンTHEEND』も『メモリー』も好きな映画だが、しかし、この雰囲気が求められる現代というのは健全なんだろうか。そうも思ってほのぐらい気持ちになる。
特にここ数年、こういう雰囲気の創作物が目立つような肌感がある。絶望と呼べるほどその輪郭ははっきりしていないが、「緩やかな終焉を甘んじて受け入れる」ような、怒りを持つことに疲れてしまったような、そんな雰囲気。世紀末が目前に迫るような激しい絶望でもなく、なんだろうか、この緩く望みを失っていくような。絶望というより失望なんだろうか。
みんな全てに疲れてしまっているのか。

怒りを持続させることは非常に体力を使う。私も人種差別や女性として生まれただけで与えられる理不尽さにずっと怒ってきた。が、それにすごく疲れた。たぶん世界中がそうなのだろう。人類は怒って、その怒りを原動力にあらゆる問題を解決してきたと言ったが、今の人類は「世界は変わらない」のではなく「ひとつの問題を解決しても無尽蔵に新しい問題が出てくる」という現実に直面して、それらひとつひとつに対する怒りを持続される体力が尽きてきてしまっていて、緩やかに望みを失ってきているような気がする。
「ひとつの問題を解決しても無尽蔵に新しい問題が出てくる」というのはつまり、世界を変えられないのではなく、ひとつの問題について世界を変えることができても、別の角度から見るとその変革は新たな問題を孕んでいて、世界のそのあまりの「多様性」に耐えきることができない人が多いのではないのだろうか。

90年代以降、世界が「大きな物語」を失ってしまったとよく言う。どう生きていったらいいかの指針が示されず、はっきりとした善悪に基づく勧善懲悪の物語はリアリティを失って流行らなくなり、「それぞれにそれぞれの正義がある」ような創作物が主流となった。その人間の精神のぐらつきにうまくフィットしてしまったのがかつては新興宗教であり、現在は陰謀論であるとも言うが、もしかすると、陰謀論を信じたい人は、まだ世界にうまく納得のいく一本筋(つまりそういう物語)が通っていると信じたい、世界に希望を失っていないひとたちなのかもしれない。

怒り続けることに疲れて、あらゆる問題を生み続ける世界に緩やかに望みを失って、それでもメディアを通していやでもあらゆる問題を認識し続けないといけない現代。どれだけデジタルデトックスを謳っても完全な情報の遮断はできず、完全に耳を塞いでしまおうとする人は、弱虫として排斥される。でもみんな怒り続ける体力は尽きてきている。Qアノンをあざける人がおそらく世界のマジョリティで、そういうマジョリティに求められてこういう雰囲気の創作物が多く生み出されるのなら、その現代は健全なんだろうか。これからどうなっていくんだろう。

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