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文袋は思案する。

これからなにがしたい?とたずねられたら、さて、と腕を組み、首を傾げる。したいこと、ないの?と、なおも問い詰められたら、いやいや、ないことはない、と答えるだろうが、その先が続かない。

文袋を作り続けていきたい、と答えればいいんだけど、なんかこう、行き詰まっている感じがあって、ずっとこれを続けたいのかどうかわからなくっている。

まあ、山ほどの在庫があるのだから、それもむべなるかな、だ。

布が好きで、好きな布が形になっていくのがたのしくて、ここまで続けてきたのだから、この先もそうしていけばいいんだけど、0敗でイベントを終えた日には、なかなかそんなふうに思えなくて、どうしたものやら、とため息をついてしまう。……この、煮詰まる感じが青臭いんだろうな。

で、ふと、司馬遼太郎さんの「街道を行く」の言葉を思い出す。

「アイルランドは全戦全敗の国です」

全戦全敗‼️ そんな国が国として存在している。戦いの全てに負けても、そこに在るということ。それはなかなかにすごいように思う。

全ての戦いに負けても文袋でありたいのか?と自問してみる。実際、京都での活動はずっと低空飛行だから、また、腕組みをして、唸りたくなる。

あるギャラリーのオーナーさんが言ったセリフが心に刻まれている。

あたし、めげないの。

連戦連敗でも、めげずに次に進める強さ❗️あたしにあるだろうか。

イベントに持っていったものをすべて持ち帰る足取りの重いこと。

自分は誰にも求められないものをつくっているのか、という寂しさを抱えながら夕陽のなかを帰路につく。

そんな負けの日々にめげずに、次に進めるのか?

道楽と割り切ってしまえば、売れるの売れないの戦いは二の次ってことになるから、気は楽だろう。

生業ではないのだから、というエクスキューズに寄りかかって、もう少しお気楽に、すきなものをすきなように作って、京都でも、おんなじすきを感じでくれる人が現れるのを待てばいいのかもしれない。

待てるのか?待つしかないのか?

老いが迫るお年頃は、これから先の時間をはからざるを得ない。残りはそう長くはない。

だとしたら、こんなにめげることより、なにかほかの有意義なこと、あるいはやり残したことに時間を使ったほうがいいのではないか。

そう思いながら、文袋の行方という画像をみてみたら、これまでの購入者の笑顔に出会う。

あー、そうだった。このうれしげで誇らしげな笑顔に出会うために作ってるんだった。作り手の冥利はそこにある。

京都でその笑顔になかなか出会えなくて、しょげている。

釣れないのなら池を変えればいい

と言ったのは、陶芸家さんだった。

うまくいかないなら、場所を変えればいい、という意味だった。

変えた場所でもうまくいかなかったら、また変えてみればいい、と。

負けてもめげずに、すきなものをすきなように、自分にあう池に出会えるまで、足掻く。そういうことだな。


0敗で帰った寂しい夕刻、最近通販で文袋をもとめてくださったかたのお言葉

ほっこりかわいいカッコイイ。文袋は最高です

に、心をあっためてもらう。ありがたい。




読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️