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ざつぼくりん 46「虫食いⅡ」

そういえば早いもので、絹子の姪の華子も来年は高校生だ。うまく食事がとれなくてうつむくちいさなやせっぽっちの十歳の華子。欠けることない家族に囲まれながら、居心地の悪い日々を送っていたのだと時生から聞いていた。



孝蔵夫婦の家に華子がやってきて、いっしょに台所にたった日のことをうれしく思い出す。おんなのこを持たなかったから、というばかりではない。料理の手順を教えていると、家のなかで自分の為してきた細かなことがまた未来に繋がっていくような、遥かな思いが湧いてくるのだった。菜を切らせるとトン、トン、トン、と慎重な音が台所に響いた。けんちん汁の味見をさせると、大きな声で「美味しい!」と答えた。何気なく振り返ると孝蔵がおだやかな表情でこちらを見ていた。そんなとき、わざと「なにか用ですか?」とたずねると、孝蔵は首を左右に倒しながら視線をずらして「なんでもねえよ」と答えた。それを聞いて華子は志津の耳元で「今日はばかやろうって言わなかったね」と言って笑った。


古びた家に華子の声がころがるたびに、老いた夫婦の暮らしがふわっと明るくなった。いつの日も華子は孝蔵の自慢の種だった。孝蔵がことあるごとに「華ちゃんはいまにえれえべっぴんさんになるぜ」と予言したように、この五年のあいだに少女らしいやわらかな曲線をまとうようになった華子は、ここいらのどの娘よりきれいだと志津もひそかに自慢に思っている。


華子は時生の家に来たときにはふたごを連れて志津をたずねてくれる。三人はいつもなによりさきに仏壇の前に並んで座り、そろって静かに手を合わせてくれる。


志津はベンチを離れ、また歩き始める。雲の切れ目から薄日がさし、運河の向こう岸の堤防に並んで座っている老人ふたりを明るく照らす。何をあんなに楽しげに話しているのだろう。ふたりの体の線がくつろいで見える。白髪の老人が大げさな身振り手振りをして語りかけると、毛糸の帽子を被った老人は体を揺らして笑う。あんなに長く生きてあんなに笑っているふたりはいったいどんな関係なのだろう。幼馴染みだろうか。共有する思い出をふたりして掘り起こしているのだろうか。それともお互いの今を語り、孫の自慢でもしているのだろうか。


志津は遊歩道のゆるやかなカーブを歩く。枯れ枝に雀が止まっているのが見える。雀はあとからあとから集会でもするかのように集まってくる。枝の上下で、なにを告げあっているのか、にぎやかにさえずる。志津が近づくといっせいに飛び立つ。堤防側に設けられた花壇に花はなく、黒々とした土が見える。しかし春がくればこぼれ種から菜の花が咲き、あたりを黄色に染める。夏から秋にかけてはコスモスが長く咲き続ける。どの花も季節をたがえずいのちを繋ぐ。


孝蔵と歩くこの道に、沙樹と多樹が時生の押すツインのバギーに乗って来たのは、穏やかな陽のさす冬の日だった。傍らには絹子がいた。ほっこりとした日差しのなかの家族四人の姿を見て、孝蔵は「いけねえ」と言って鼻をつまんだ。


遠い日、赤ん坊がいる風景に孝蔵夫婦もいた。確かにいた。純一が……おすわりをした、這い這いをした、つかまり立ちをした、一歩歩いた……志津はどの場面もくっきり思い出せる。そのときの孝蔵の笑顔も褪せずに記憶にある。



多樹と沙樹がオムツをしておぼつかない足取りでこの道を歩いてきた日のこと。「こーじぃ、しじゅばあ」と呼んでくれた日のこと。志津が作ったおそろいのワンピースを着て自慢げにくるりとまわってみせた日のこと。三輪車に乗れるようになったと報告してくれた日のこと。幼稚園の入園式の帰りに制服を見せにきてくれた日のこと。 この道でふたごと会った日のことを思い出すと必ず孝蔵のうれしそうな顔がうかぶ。  


二年ほど前から孝蔵は平地にいながら高地を行くような息苦しさを訴えるようになった。その肺の衰えが手繰り寄せるものを志津は次第に肌で感じるようになっていった。去年の暮れあたりからは、食卓に孝蔵の好物の刺身を並べても「わりぃな、もう食えねえ」と言って箸を置く日が増えた。食べると息があがる。つらくなって休み休み時間をかけて食べているうちに食欲がうせてしまう。長く食卓に向っていることすらが苦痛になり、早く横になりたいと身体が訴える。そんな日の繰り返しで孝蔵は徐々に体力を失っていった。声が変わっていった。現場の仕事が鍛えた身体から飛び出す野太い声は孝蔵の思いを乗せて真っ直ぐどこまでも響いたのに、家の中で志津を呼ぶ声さえだんだんとかすれて小さくなり、貝殻を小刻みにこすり合わせたような聞き取りにくい音になった。


今年に入ってからは寝つく日が多くなった。なんとかしようという気持ちがあっても孝蔵の体はうごかなかった。庭先の棚に並ぶ盆栽は刈り込まれることなくてんでに伸びていった。廊下に落ちるその影を孝蔵は布団のなかから物憂げに見ていた。動かないことで筋肉が落ち、孝蔵はしぼむように痩せていった。頬を覆う縦皺は孝蔵の顔を別人のように変えた。擦った背中、握った手首のおもいがけない薄さ細さに志津は何度も唇を噛んだ。


春先に肺炎を起こして入院した時、酸素マスクをつけても苦しげな孝蔵を看ながら、もうこれが最後かと志津は思い定めた。見舞ってくれたひとたちもそう思ったことだろう。


それでもそのときはなんとか持ちこたえてくれた。医者のいうように生まれ持った生命力の強さもあるかもしれない。しかし志津は係累のない自分をひとりをこの世に遺していけないという孝蔵の想いなのだと信じた。二ヶ月あまりの入院ののち孝蔵はなんとか退院できた。それからの日々は孝蔵からのプレゼントだったのだと志津は思う。夫婦がいっしょにいられる最後の時間だった。それは安堵と覚悟の入り混じった時間だった。優しい時間であったし、厳しい時間でもあった。志津は共に暮らす一瞬を切り取ってはこころに刻んだ。


やがてそんな日々も終わる。盆の送り火をした日の暑く寝苦しい夜半、孝蔵は胸苦しさを訴えた。並んで眠る部屋で、小さなあかりが照らした孝蔵の苦悶の表情は尋常ではなかった。その瞬間、志津の耳の中でせみ時雨のような音が響いた。それは何日も鳴り止まなかった。純一が交通事故にあったという連絡を受けたときに響いた音と同じものだった。


志津は「孝蔵さん、孝蔵さん、孝蔵さん」とこころのなかで唱えながら救急車を呼んだ。救急車の中で聞いたかすれ声の「すまねえ」という短い言葉が孝蔵の最後の肉声だった。志津ひとりを残していくことを謝っていたのだろうか。あるいは長い間迷惑かけたなといいたかったのだろうか。長くいっしょにいても孝蔵が自らの想いをまっすぐに語る言葉はそうたくさんはなかったことを思い出す。その数時間後、運ばれた救急救命室で孝蔵は息を引き取った。そのあっけなさは金魚すくいの輪っかに張られた薄い和紙が水に溶けてしまうようだと志津は感じた。孝蔵はなにをすくいそこねたのだろう。

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