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ざつぼくりん 39「べっぴんさんⅤ」

その時の僕がよほど不機嫌そうな顔をしていたのか、風呂上りの華子がバスタオルで髪の毛を拭く手を止めて不安そうな顔で、僕を見上げて言った。

「時生さん、どうしたの? なに怒ってるの?」
「うん? 怒ってなんかないよ」

「だって怒ってる顔だもん。ねえ、さっきの電話、うちからだったの? うちのおかあさんが何か気に障ること言ったの?」

僕はバスタオルの上から華子のくるくる回って察しのいい頭を撫でて、首をふる。

「あのさ、華ちゃんのおとうさんが明日のお昼に迎えに来るって」

「……どうして、そんなに急に? 九品仏の家に帰らなきゃいけないの? わたし」
 僕は驚く華子に睦子の言葉をそのまま伝えた。

「あーあ、やだなー。おかあさんってなんでこう全部自分できめちゃうんだろう……」

華子はダイニングの椅子に腰を下ろし、頬杖をつく。上からの灯りが華子の顔に影を作ると、風呂上りの上気した顔から急に生気が失せたようにみえる。はじめてうちに来たときも華子はこんな顔をしていたな、と思い出す。

「ごめんね、時生さん。……」
 華子が僕にむかって小声で告げる。

「華ちゃんが気にすることじゃないよ。おかあさんは華ちゃんに早く元気になって欲しいって思ってるから気持ちが焦るんだと思うよ。……華ちゃんはどうしたいんだい? 絹子がいたら、華子の気持ちがいちばん大事よ、っていうと思うよ。僕は……むこうへ帰ったらまた華ちゃんつらい思いをするんじゃないのかなって心配でもあるんだよ。華ちゃんが帰りたくないんだったら、僕がいくらでもおとうさんにお願いするからね」

「うーん……帰りたいか帰りたくないかって聞かれたら、まだ帰りたくないっていう気持ちのほうが大きいかもしれないんだけど……でもずっとここにいるわけにもいかないんだろうなとも思うの」

「いや、いいんだよ。僕たちは華ちゃんがいてくれてうれしいんだよ」
 華子は唇を歯の間に入れてもごもごしながら思案していた。

「あ、今すぐ答えを出さなくてもいいんだよ」 

僕は人肌にあっためた牛乳を華子に手渡した。華子はおいしそうに飲み干し、ふうと息をついて、うわくちびるをぺろりと舐めた。

「ありがとう。……わたし、そろそろひきだしを静かに閉められそうな気もするの」

「ああ、あのひきだしかあ……でも華ちゃん、無理しちゃいけないよ」
「……大丈夫、わたし、自分応援団だから」

マグカップを持つ華子の小さな手が、ひきだしからあふれんばかりになったつらい思いを押し込めてゆっくりと取っ手を押すところを想像した。そんなことをするために華子を帰すのかという思いがわく。

「受験のこととか、おとうさんはなんて言ってるんだい?」

「うちのおとうさんはけっこう評判のいいお医者さんだから、仕事とかお付き合いとかでなんだかいつもいそがしくて、家のことはほとんどおかあさんが決めてからおとうさんに相談するの。おとうさんは、わかったっていうしかないみたい」

「そうかあ。どこでも父親ってそんなもんなのかなあ……僕のおとうさんも会社に勤めているときはそうだったな」

父は製薬会社の研究所での仕事に没頭していた。新薬の研究チームに入ったこともあるが、父はもともと風呂場から裸で飛び出したアルキメデスのようなところがある。集中すると周りが見えない。今自分のいる場所さえ忘れてしまう。抱えている研究が大詰めにはいると家に帰ってこないこともあった。やがてむなしく父を待った時間は僕たちのなかの父の気配を次第に薄めていった。

「頭のなかは化学記号ばっかりなんじゃないかなって思ったことあるよ。自分には家族がいることをわすれてるんじゃないかしらって、僕のおかあさんはよく言ってたよ。」

「ふーん、そうなの? でもね、うちのおとうさんは、はなぶさが死んだときはいっしょにお墓作ってくれたし、学校休むようになってから、ポンポンってわたしの肩叩いて『おかあさんも理子もふたりとも聞く耳もたないからね』って慰めてくれたの」

「そうかあ、よかったねえ。そうそう、足の爪の形もそっくりだしね」

「ふふ、そうなの。でも午後の診療があるから、夕飯をおとうさんといっしょに食べることってめったにない。お休みの日でも往診でいつ呼ばれるかわからないし。……ねえ、時生さん、忙しいおとうさんって灯台みたいね」

 また華子の話が飛ぶ。「とうだいって?」と僕は追いかける。

「うん。夏に千葉の海へ行ったとき思ったんだけど、岬とかにある灯台ってあかりがくるって一周するでしょ?

こっち向いてるときは明るいんだけど、他のほう向くとさっきまで明るかった分こっちはよけい暗く感じるでしょう? それにまたこっちにくるまでずっと待ってなきゃいけないし……うちのおとうさんってそんな感じ」

「あー、そうかもしれないねえ……」
 華子の言葉は、いつも思いがけない場所へと僕を運ぶ。


きゅっきゅっきゅっとリノリウムの床を鳴らして歩く看護婦のせわしない足音が響いていた。
昏々と眠る母の体につながれた機械のなかで、ツーと伸びては跳ね上がる緑の線はなんだか頼りなげなひかりだった。

誰かの苦痛を和らげいのちをも救うような薬を作りながら、自分の妻を救えない現実。あの時、父はどんな思いでいのちの淵にいる母を見つめていたのだろう。過ごしてきた時間への悔いだろうか。片側に妻のいのちを置いた天秤につりあうものなどないと僕は思う。

「でも、華ちゃん、すごいこと考えるね。実際、仕事熱心なおとうさんほどそうなんだけど、家族はさびしいよね」

「うん。……あの、うちのおかあさん、気に食わないと言葉より前に舌打ちするの。わたし、その舌打ちがすごくいやなの」

 ああ、僕はまた忘れかけていたことを思い出す。

「舌打ちかあ。うーん……小さいとき、体の弱い弟の具合が悪くなったときとか、僕のおかあさんもささいなことで舌打ちしたな。僕も大声で叱られるよりいやだったよ」

母はいつも案じ顔で幼い明生から目を離さなかった。常に神経がぴりぴりと張り詰めている感じだった。僕が風邪をひくと、母はまず明生にうつさないように気を配った。その気苦労や過労が重なっていたのだろう、僕がいたずらをしたりヘマをしたりすると母は容赦なくヒステリックに叱った。不安定な心から生まれる憤懣が言葉になる前に口中で舌打ちになって炸裂した。

「でも京都のおばさんちにいたとき、怒鳴りつけにでもいいから、おかあさんがこっちの世界へ来てくれないかなあって思ったことあったよ。」

母は入院が重なるにつれ、削られるように痩せていった。まだ四十歳にもなっていないのに、母は祖母よりもしぼんでいた。顔色はくすみ、強情なくせがあった豊かな髪の毛は薬の副作用であっけなく抜け落ちていった。点滴漏れで紫に腫れ上がった腕をあげて頭を撫で「おにいちゃん、かあさん、こんな坊主になっちゃった」と悲しそうに言った。その手の爪は奇妙に黒ずんでいた。

母は骨ばった黄色い手で僕の手を握り「おにいちゃん、明生のことをお願いね」といい残した。その約束を守って明生を大事にしたら母が帰ってきてくれるんじゃないかとこころのどこかで思っていた。

「時生さんもさびしかったのね……」
「そうだったかもしれないね」

夕暮れの原っぱの茂みに見失ったボールがいつか思わぬところから現れてくるように、僕はなんだか知らないうちにこれまであまり思い出したことのないことを口にしていた。本人は意識していないのだろうが、華子の言葉は、僕がずっとこころの半透膜の向こう側においてきた大きな痛みが、本当はもうちいさくなっていることを気づかせてくれた。

ふと時計をみると十時をまわっていた。  
  
「あ、もうこんな時間だ。秋の夜幕おじさんはもうとっくにやってきたよ。うかうかしてると巻き込まれて連れてかれるよ」

「もう、時生さんたら……」

華子が寝てから、僕は孝蔵さんとカンさんに電話をかけた。

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️