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その庭で

実家の庭に当たり前にあった木の名前を知らなかったということに驚いている。松があった。楓もあった。アオキもあった。躑躅に南天は覚えている。でもあとはみんな「緑の葉っぱの木」でしかなかった。

「あれはマキです」と教えられた木は、かつて庭の枝折り戸のそばにあった木だ。マキという名だったのだ。それじゃあ、そのほかの木はなんといったのだろう。それぞれに名前があったはずだ。まったく、何にも知らずに、うかうかと生きてきたものだ。

記憶の中の庭は、幼い私とはなぶさという猫の遊び場所だった。はなぶさが灯篭の上で寝そべり、私は楓の幹の二股に分かれたところに立って、勝手な歌などを歌いながらその姿を見ていた。

ブーメランのような楓の種が飛んだ。それは、はなぶさがそこにいるのと同じように、なんとも当たり前のことで、なんとも思わず見ていた。およそ感動というものががなかったなあと振り返る。

枯山水のむこうの松の枝が離れの軒先をうかがうほどに伸びていた。父はそれを面白がって、伸びた枝に支えの棒を立てた。松はギブスをはめられた腕を試すようにぎこちなく揺れた。その枝だけ妙に鮮明に覚えている。

日が差し、日が曇り、夕日の色が押し寄せ、風は強く弱く吹き、庭は日々その面立ちを変えていたいたはずなのに、私にはただ、はなぶさといっしょにそこにいた記憶しかない。

不器量で賢くもなかったはなぶさを当時の私は、家来のように思っていたけれど、ほんとうは、所在無さというものを共有してくれた親友だったのかもしれない、と今になって思う。

私ははなぶさと一緒に庭にいることでたくさんのことを慰めてもらっていたのかもしれない。二股楓と手長松とたくさん葉っぱをつける木々に囲まれて、ただ一緒にそこにいるだけでよかったのかもしれない。

じいさんばあさんに育てられ、たくさんの大人に囲まれて、なにをやってもへたくそな泣き虫の女の子と甘え下手のぶち猫。一家のみそっかすのひとりといっぴきがそこにいた。たくさんの緑の葉っぱのなかに。

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