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初音ミクを観に行く❣️

昨日、京都南座へ超歌舞伎なるものを家人と観に行った。

先月、ここで坂東玉三郎さんの四谷怪談を観たのだが、そことここはずいぶん遠いな、という感じがした。

祇園が近いこともあって、会場にはちらほら舞妓さんの姿があった。後ろ姿がかわいい。

獅童さんは歌舞伎座で何度も観た。今はなき勘三郎さんにアドリブで揶揄われていたのは、最初の結婚の頃だったか。遠いはなしだな。

さても、はじめまして!の初音ミク。あたしにとっては千本桜を歌ってる子なんだけど、今回は出雲のお国だったり、苧環姫だったりした。

斜め前の席の方が、初音ミクの人形を抱いて観劇されていた。時に耳元で話しかけ、時にブルーがかった色の髪を撫でていた。申し訳ないけど、なんか目が離せなかった。

終演後、このフィギュアが、舞台から客席に語りかける獅童さんの目に止まり、それは?と質問されていた。ガチャガチャで手に入れた、と答えておられた。

歌舞伎はずっと時代とともに走ってきた芸能だ。お能のかたくななまでの型の踏襲と比べれば、同じように古典芸能といわれながらも、歌舞伎は、時代の上澄み液を飲み込んで、溶け込ませて、練り上げてきたのだから、好き嫌いはあるだろうが、これも、アリ‼️だと思う。

初音ミクという二次元の世界の存在を舞台に上げるにはいろいろ工夫が必要だが、そこはそれ、テクノロジーとロックの力が下支えしている。松岡充さんの名前をここで見るとは。

歌舞伎のお約束はいろいろあって、観るものの想像力に委ねられているものも、少なくない。見えているけど、見えないことになってる黒子とか、太鼓の音だけど雨の音だったり、雪の音だっりする。隈取りでわかる役の善悪とか、説明をスキップできる様式がある。

歌舞伎は、よくわからなくても、これはこういうことなんだな、と推測し納得して観るのも楽しみの一つなのだと思う。

時間ぎりぎりに滑り込んだ客席にペンライトが満ちる。それはひとつ4000円と聞くと手がでない。しかしたくさんの人が他にして赤や青の灯りを灯し、それを振る。それには音声の機能もついていて、大向こうのような掛け声もだす。ほうほう。

「萬屋‼️」

コロナ禍での苦肉の策らしい。それもありだろうが、風情が違うな、と思う。掛け声は芸だ。

そのライトの説明がご丁寧で、持っていないこちらは時を持て余す。次第に眠くなったりする。

幕が開き、映像のなかの初音ミクがたおやかに舞う。描かれる細い身体。そこにいてそこにいない存在。

そうだ玉三郎さんの腰もこんなふうだった。玉三郎さんの舞にははなやかであってもどこか存在の儚さがあった。生身の人間がこの一瞬に命を結晶させる。初音ミクは永遠に舞い続けるだろう。異質でありながら、それをそうと知っている悲しさを纏いながら。

いや、いつかこの文明が滅びたのちの廃墟のゴミの山の中の映像機のなかに、砂嵐のような音と共に荒れた画像の初音ミクが踊っている姿を想像すれば、それはいよいよ哀しい。

脇の踊り手さんは女形ではなく、女性だった。どの方も美しく可愛い。なかでも

このかたの踊りが目を引いた。なんというか、動きのひとつひとつに心を残す感じがした。

可愛いな、と思ったのはこのひとだ。

少年がそこにいた。

終演後、写真動画の撮影がOKとなり、それにあわせて、舞台は緊張をとかれた役者さんたちが満面の笑顔で弾みまくりの大盛り上がり。

客席のひとはペンライトや、スマホのライト、拍手で応える。ご高齢のかたがたも嬉しそうに弾む。コロナ禍でどこかに置き忘れたきた時間の爆発。思いがけず身のうちから飛び出す躍動。揺れる灯り、笑顔、歓声、拍手、舞い散る花吹雪。初音ミクは、一番奥でそれを観ていた。


読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️