見出し画像

ざつぼくりん 40「べっぴんさんⅥ」

翌日、目が覚めるとカーテンから朝の明るい日差しが洩れていた。

「今日、おとうさんが迎えにくるね。だいじょうぶかい? 華ちゃん」

「うーん。だいじょうぶだと思うけど……わかんない……けど、自分応援団でがんばる」

「そうかあ、華ちゃんはほんとにがんばりやさんだね。……でも絶対無理しちゃだめだよ」

「……時生さん、わたし、やっぱり、みんなにちゃんとさよなら言って帰りたい……」

「あのね、絹子は無理だけど、今日、孝蔵さんと志津さんとカンさんにここにきてくれるように頼んであるんだ。お別れ会しようと思って」

「えっ、ほんと?……なんだか……わたし、帰りたくなくなっちゃう……」

夕べ、孝蔵さんは電話口で怒鳴った。

「時ちゃん、なにいってんだよ。そりゃあねえぜ。寝耳に水たあこういうことだよ。……華ちゃんが帰りたいって言ってるわけじゃねえんだろう? ……帰しちまったらまたかわいそうなことになりゃあしねえかい? 心配じゃねえか。……志津もおかんむりみたいだぜ。ふたごの赤ちゃんをあんなに楽しみに待ってるのに、今帰しちゃ、華ちゃんがかわいそうだって言ってるよ……」

カンさんもめずらしく声を荒げた。

「いったいどなたの都合で明日なのですか? 調子が悪くなったときの状況となにも変わっていないところへ華子さんをお帰しになるんですか、時生さん。絹子さんはどうおっしゃってるんですか」

僕だって今のまま帰すことがいいことなのかどうかはわからない。いつの間にか華子は僕と絹子の間の空間にしっくりとなじんできていた。気持ちは熱伝導のように確実に伝わる。この町で次第にあがっていった華子の体温は、日を過ごすうちに照り返すように、僕らやカンさん、沢村さん夫婦をゆっくりとあっためてくれていたような気がする。

華子が帰っていってしまうと思っただけで湧いてくる、肌になじんだ毛布を剥ぎ取られてしまうようなうすら寒い思いに僕は戸惑っている。そんな自分の思いと華子のその後を案じること思いが交代で頭に浮かんで、夕べはなかなか寝付けなかった。絹子だって話を聞けばこころ穏やかではいられないだろう。しかし僕らは華子の親ではない。

チャイムがなった。
「おーい、華ちゃーん」
「あ、孝蔵さんの声だ」
「あれ、えらく早いな」

ドアを開けると沢村さん夫婦が大荷物を抱えて立っていた。

「おう、時ちゃん、ちょっとはええけど、きちまったよ。いろいろもってきたぜ。こいつでちょこちょこっと志津が作るからさ、華ちゃんにうめえもん食わしてやってくれ」

「ごめんね、時ちゃん、このひとせっかちで。行くって言い出したら、きかなくてね」

「ばか、なに言ってんだよ。うかうかしてたら華ちゃんの親父さんがきちまわあ」

「はいはい、そうですね。ねえ、華ちゃん、卵焼きいっぱい焼いてきたよ。持ってかえってあっちでも食べてね」

「あ、ありがとう。うれしいな」

孝蔵さんは夕べ怒鳴ったことなどなかったかのように、にこにこしながら入ってきて、どっかりとダイニングの椅子に腰を下ろした。少し息がきれている。

「はー……おう、時ちゃん、ここの間取りは明るくてなかなかいいな。普請も悪くねえよ」
大工だった孝蔵さんは部屋を検分してそんなことをいう。

「ええ、古いけど日当たりがいいのがいいって絹子が決めました」

「そうかい。……ふたごがうまれたら日向ぼっこさせてやれるもんな。……ところで華ちゃん、あっちの家にけえっちまうんだってな」

ふっと華子が振り返って僕のほうを見た。どうしようと聞いているようだった。僕は黙ってうなずいた。華子もまたうなずいた。

「うん。ごめんね」
「なに言ってんのよ、華ちゃん。気にしないでいいのよ。こっちこそ、こんなおじいちゃんとおばあちゃんと遊んでくれて、うれしかった。ありがとね」

「おう、ごちゃごちゃいってねえで、早くしたくしな、志津」

「はいはい、わかりましたよ。時ちゃん、お勝手借りるわね」
「わたしも手伝うー」

藍染のエプロンをつけた志津さんは持ってきた材料で料理を始めた。米を研ぐ音、菜を切る音、ゴマをする音、卵を割る音、かき混ぜる音、油のはねる音、魚の焼ける匂い、どこか懐かしい煮物の匂い、食器がぶつかる音、志津と華子が交わす短い言葉……部屋には平穏な音と匂いが満ちた。孝蔵さんと僕はそのふたりの後姿をただ見ていた。

と、今度は遠慮がちなノックが聞こえた。ドアを開けると作務衣姿のカンさんが立っていた。風呂敷つつみを抱えていた。僕の後ろから華子が弾んだ声で言う。

「あ、カンさん!」
「ああ、華子さん」

カンさんはほっとしたような声を出す。互いを確認しあったふたりは、そのあと何を言うわけでもないのになんだか満足そうな顔をするのだった。

出来上がった料理がテーブルに並ぶ。茶碗蒸しから湯気が立ち上る。

「華ちゃん、いっぱいお食べね」
「うん、おいしそう」

ほくほくの栗ご飯をほおばる華子に孝蔵さんが言った。

「華ちゃん、むこうでまたいやなことがあったら、いつでもこっちに帰っておいで。電車一本でこられるからな」
「うん。ありがとう」

そんな華子の笑顔を見ながらカンさんが風呂敷つつみをあけた。

「華子さん、これは華子さんに差上げようと思って持ってまいりました」
 カンさんが差し出したのは禅画の掛け軸だった。

「あ、丸三角四角……せんがいさんだ! 」

「ふふ、むろん複製ですが、うちでお見せしたときお気に入れられたようだったので」
「ああ、ありがとう。ふふ、これって、カンさんと志津さんと孝蔵さんの輪郭に見えるの。丸は志津さん、三角はカンさん、四角は孝蔵さん……大事にします」

「よかったね、華ちゃん」
「うん……ねえ、時生さん、わたし、また、ここにきてもいい? ふたごちゃんに会いたいの。わたし、どうしても」

「ああ、もちろんだよ。ありがとう」
「ああ、あたしもずっとその日を待ち焦がれてますよ」

「俺たちも思いはおなじさ。ほんとに待ち遠しいさ。……ふたりが生まれたそんときはまたみんなで集まろうな。……華ちゃん、おふくろさんがダメだっていったら、かきおきおいて、家出してきな」

「このひとったらまたそんなことを! でもふたごちゃんが生まれたらみんなでいっしょに会いにいきましょう。ねえ、華ちゃん」

「うん、ゆびきりげんまん!」

「……おふたりはどんなお子さんでしょうねえ」
どこか夢見るような口調でカンさんがひとりごとのように言う。

「そりゃあおめえ、絹さんに似たべっぴんさんさ」

「また、このひとはそんなことを……。元気に生まれて来てくれればそれでいいんですよ」

「きっと活発なお嬢ちゃんたちでしょうねえ。早くお会いしたい……」

「生まれる前からこんなにみんなに大事に思ってもらえて僕たちのふたごはしあわせもんです。絹子が聞いたらきっと泣き出すと思います。ありがとうございます」

「時ちゃん、おめえ、親父の顔になってきたよ」

「いやあ。そんな……」

「親父になるってのはけっこうこそばゆくて、わくわくして、そのくせ、妙に不安なもんだよな。おぼえがあるよ」

「そうですか?」
「そうなんですよ、時生さん」
「カンさんもおぼえがあるの?」
「……さてね」
「ふふふ、おかしい・・・」
僕と絹子の小さな部屋にひとが満ち、あたたかな料理をかこむ。

実の親兄弟といっしょに暮らしながら瞳を曇らせ、うまく食事がとれなくなった華子がこんなふうにうれしそうに箸を持つ。孝蔵さんと志津さんはこの姿を眼裏にとどめておきたかったのかもしれない。

じゃあなと言って別れたっきり純一とはもう二度と会えなかった。元気でね、と声をかけて見送ったオミくんもあっけなくこの世を去った。華子がそんなふうになるわけはない、と思いながらも、僕はこころのどこかがざわめいてならない。

華子を囲む僕たち四人はそれぞれの事情で親とは長くいっしょにいられなかった身の上だ。それでも華子がおいしそうに食事をしている姿に僕たちは安心する。するんと茶碗蒸しを飲み込む華子にほっとする。もう、家に帰っても問題はないのだと思いたかった。

親戚の集まりで会う紘一郎はいつもゆったりとした穏やかな笑顔を浮かべていたのだが、迎えにきた紘一郎は送りにきたあの日と同様、玄関先で真面目な硬い表情のまま白髪の勝った頭を下げた。灰色の背広に臙脂色のネクタイをきちんと締めていた。食事を口にしない娘に父親はいったいなにをしてやることができるのだろう。

あの日、紘一郎は華子の頭を撫でて「だいじょうぶか、華子」と聞いた。華子は黙って頷いた。絹子に華子を預けると、紘一郎は若造の僕に向かってふかぶかと頭をさげた。そのとき「時生さん、絹子さんが大変なときにもうしわけないですが、華子をよろしくおねがいします」と言った声が深かった。

沢村さんに僕を預けるとき、同じように頭を下げた父の顔が浮かんだ。

「こちらの勝手な都合で申し訳ないことです。実は明日、わたしの父の法事がありまして親族が集まるものですから、華子も出席させたいと妻が言い出しまして……。こちらのみなさんにはたいへんお世話になりました」

今日も紘一郎は硬い表情で「だいじょうぶか、華子」と聞いた。

「うん、だいじょうぶ。今、みんなにお別れ会してもらってるの。志津さんの手作りのごちそう食べてるところなの。おとうさんも食べる?」

華子のにこやかな答えに紘一郎の表情が崩れた。


夜幕に裏打ちされた窓ガラスに僕の顔が浮かんでいる。いつかどこかでみたような思案にくれた顔がぽつんと映っている。僕は華子の思いを紘一郎にうまく伝えられただろうか。それを聞いた紘一郎が家庭できちんとフォローできるだろうか。長い不在の後、華子はうまく家族のなかに入っていけただろうか。

林立する高層ビルの肩口で律儀に点滅する赤い灯のようにそんな思いが湧いては消える。答えはどこからも返ってこない。絹子の寝息が深い。すこしふっくらした頬にそばかすがうかび、短く切り揃えた前髪が乱れて額がのぞいている。そっと前髪をかきあげてみる。本人は気に入らないというが、柔らかなカーブを描く聡明そうな広い額が現れる。

僕の眠り姫たちはいったいどこまで旅しているのだろう。ねえ、絹子、みんなが僕たちのふたごの誕生をまっていてくれているよ。


読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️