1 エメ

 それは少し前にあったお話。夜の街、薄暗い路地に、音も無く歩く影がひとつ。

カサカサッ
 
 彼はその物音を聞いて、ピクリと足を止めた。
 美味しそうな香りが漂うこの一帯の壁際には、私たちの目にはわからない、小さな獣道があるようだ。
「……」
 キョロキョロクンクンと辺りを確認しながら、用心深く早歩きする尻尾の長いその子を、エメラルド色に煌めく瞳が捉えた。
 スッスッと静かに近づいていく。その暗がりに溶け込む毛色のお陰で、彼のディナータイムを邪魔する者はいないのではないだろうか。
「……」
 充分距離を詰められ、彼は腰を落として低い姿勢に。お尻をフリフリ。ターゲットは、鉄のゴミ置き場の下から登っていくつもりなのか、掴まり立ちの態勢で、進行方向の安全確認をしていた。
(今だ‼︎‼︎)
 ザンッ!素早く飛びかかると、しっかり獲物を捕まえて、ガブリと噛みつこうと口を開けた。しかし。
「ニャアッ‼️‼️‼️」

ドンッ‼︎‼︎‼︎
「ぐぇッ」

 上からデカい何かが落ちてきて、その衝撃で手をパッと離してしまった。
テケテケテケッ💦💦💦💨
「ああッ!!!?」
逃げ去るごちそうへ手を伸ばしても、身体は押し潰されて動けない。
「どけよ!!!!逃げられるだろ!!!!💢」
「んニャア?ネズミがデカくなったかと思ったら、違うのかぁ」のんびりな声が上から返ってきた。「邪魔してくれるなよぉ、小僧」
顎をグッと引き上げて、彼は叫んだ。
「邪魔したのは、お前だぁーッ!!!!💢」
オレンジ色の耳をパタリと閉じて、お説教は聞こえない聞こえない。
「意外とお前って、元気なヤツなんだな」
 そう言うと、乗っかっていたモフモフはどいてくれた。
「フシャーッ!!」
身体が解放されると、怒りの感情も解放して、口を横に大きく広げる威嚇の表情をモフモフに向けた。
「そう恐い顔するなよ」
「シャーッ、自分の方がデカいからって、オレを侮るな」
「やめとけ、ケンカなんて。ケガしちまうぞ」
「…、なめるなッ!!!!」
堪忍袋の緒が切れた彼は、右腕を振り上げて、殴りかかろうとした。その時。
ガチャッ!
 そばにあった扉が急に開いて、その動きと音と、中からスッと伸びてきた光に驚いてしまい、心臓がギュッとなった反射で。
「ニャアアアアアッ!!!!!?」
飛び上がって、バタバタと我も忘れた急ぎ足でその場から逃げ出した。慌ててゴミ置き場の反対側に隠れに行く。
 残されたモフモフは、ニヤニヤして座ったまま、堂々としていた。
「だから言ったろ、ケガするって」
(してない!!!!)
 声になってない反論で訴える彼もそうだが、扉を開けた方も胸を押さえるほど仰天していた。
『ビックリしたぁ。怖がらせちゃったかな。ごめんね』
「オレは気にしてませ〜ん」
ポリポリと後ろ足で耳を掻くモフモフ。
 その人は、後ろで扉を閉めると階段を降りて、ゴミ置き場に向かった。その手には袋が握られていた。
キィ…
蓋を上に開けて、反対の手にある袋も持ち上げた。少し悲しい表情で。
『もったいないな。捨てるなんて』
ちょいちょいちょいちょい
『ん?』
 その人の足元に、何かが触れる感触があった。
「捨てるなんて、もったいない」
モフモフが優しく前足で撫でるように、ズボンを掻いていたのだ。
『食べたいのか?』
「ニャ」
『わかった』
 モフモフには匂いでわかっていた。袋の中身がパンであることが。
『あんまりたくさん食べると、お腹に悪いかもしれないから』
その人はゴミ置きの蓋を閉じ、袋を地面に置いて、丸いパンをひとつ取り出してくれた。バターの香りに、モフモフはうっとり。
『そっちの子と、半分ずつにしような』
パンをふたつにちぎってくれると、ひとつをモフモフに、もうひとつを怯えて隠れている彼に差し出した。
『驚かせてごめん。お詫びに受け取ってくれないかな』
 ゴミ置き場の陰から、訝しんだ目つきの彼がそっと顔を覗かせた。
「オレからもごめんな〜。食おうぜ〜」
もうパンを齧っているモフモフを見たら、違う意味で目が細くなった。
『おいで』
 漂う香りは鼻をくすぐってくる。あいつも食べている、なら自分も安全か、と恐る恐る一歩目を踏み出すことにする。
『怖がらないで。仲直りしよう』
 その人の声が、暖かく彼の耳に響いた。だから、信じてみる気持ちが動いた。
タタッ
パクッ
スササササッ
『あっ!あー…、行っちゃった』
 駆け寄ってくれたが、パンを奪っていくように咥えると、振り返ることなく走り去ってしまったその背中を、残念そうに、でも微笑んで見送ったその人。しゃがんだまま、手に付いたパンくずを払い落とした。
『でも、なんか…。おや?』
グルグルグル…
 喉を鳴らしてモフモフは、その人の脚に擦り寄った。
「ありがとな。あんた、近々良いことあるぜ」
彼に代わって、お礼を伝えたようだ。
「じゃあな」
 ドスンドスンと足音がしそうな体格なのに、モフモフは音を立てずダイナミックな走りで、彼の後を追い、夜の暗がりに姿を消していった。
 その人は、ぽかんとしていた。
『あの子たち、ネコ…だよな』

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