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浄土真宗! 獲信! 他力信心! 光雲先生のグループで聞法してます(7)

『阿弥陀劇場(信心をいただいたかどうかの目安)』



突然ですが、ただいまより『阿弥陀劇場』を開演したいと思います。

題名は『信心をいただいたかどうかの目安』です。

なお、この演劇は、わたくし文長が書いたフィクションです。



それでは、はじまりはじまり~



【出演者】
・阿弥陀さま
・親鸞さま
・ブンチョウ(小鳥の姿を借りたもう1人の文長)
・文長(凡夫・私)





小鳥のブンチョウは、阿弥陀さまの肩にのせてもらって、阿弥陀さまと一緒に、蓮池のほとりをお散歩しています。



・阿弥陀さま
♪ お池に はちすの お花がさいた

はちす よい花 きれいな お花

どのこにあげよ だれにやろ

はちすの お花を もらうこは もらうこは

みほとけさまの かわいいこ ♪



・ブンチョウ
阿弥陀さま、とてもやさしいお歌ですね。

ところで、『みほとけさまのかわいいこ』って、誰のことですか?



・阿弥陀さま
もちろん、私の『たった一人の可愛い子』のことです。

皆さんお一人お一人、なんです。

はちすの花、つまり『信心』を、私はたった一人の可愛い子である『文長』にあげたい、ということです。



・ブンチョウ
そうなんだ。『みほとけさまのかわいいこ』とは、阿弥陀さまの『たった一人の可愛い子』という意味なんですね。

それは『皆さんお一人お一人』という意味なんですね。



・阿弥陀さま
そうですよ。ここで「皆さんお一人お一人が、私のたった一人の可愛い子」と、どうして言えるのか、ということについて、お話ししたいと思います。

でもこれは、そのことを書き残してくださったご本人に説明していただくのが一番分かりやすいと思いますので、今回はそのお方に、舞台に登場していただきたいと思います。

それでは紹介します!

そのお方とは、ジャジャーン、『親鸞さま』です!

どうぞ、親鸞さま、こちらにいらしてください!



・親鸞さま
どうも。いま阿弥陀さまからご紹介にあずかりました『親鸞』です。舞台に立つのは苦手です。



・阿弥陀さま
親鸞さまもね、お釈迦さまと同じように「浄土真宗は阿弥陀さまが主役ですから、私は劇場の裏方に回ります」と言って、いつも舞台に立ってくださらないのです。

そして、そもそも、親鸞さまは、浄土真宗という宗派を作るつもりはなかったのです。控えめなお方なのです。



・親鸞さま
阿弥陀さまに、「私の可愛い一人っ子である親鸞よ、よく頑張りましたね」と褒めていただけるように、張り切っていきます。

えー それでは、「皆さんお一人お一人が、阿弥陀さまのたった一人の可愛い子」と、どうして言えるのか、ということについて、お話ししていきたいと思います。

結論から言いますと、それは『浄土和讃』として、私が書いたからです。

「阿弥陀さまのお心が分かるように」という思いで、私は、和讃を書いたのです。

読んでみますね。



「平等心をうるときを 一子地となづけたり 一子地は仏性なり 安養にいたりてさとるべし」



言葉の意味を説明しておきます。

『平等心』とは、

すべての人を同じように平等に見ることができて、すべての衆生をたった一人の一人っ子のように慈しむ、そして、悲しむ心のことです。これが阿弥陀さまのお心です。

『一子地』とは、

可哀想なことがある時は、「可哀想やな」そして「可愛いな」と思える心。一人っ子のように思える心のことです。これが仏さまの性質であり『仏性』と言えるわけです。これが阿弥陀さまのお心です。

そして、念仏者は、お浄土で、この『阿弥陀さまと同じお心』を、いただくのです。

お浄土で仏になったら、私たちも、そのような「みんなを平等に見ることができて一人っ子のように大事にする、そういう慈しみと悲しみの心を持つことができるようになる」ということです。

このように、和讃のかたちで表現することによって、「平等心や、一子地が、阿弥陀さまのお心の特徴なんですよ」ということを、私は、みんなに伝えたかったのです。


・親鸞さま
また、私は、この和讃の横に、次のように書きました。



「三界の衆生を我がひとり子と思うことを一子地というなり」



『三界の衆生』とは、迷える私たちのことです。

この世界で迷っている私たち一人一人のことを、ひとり子と思えること。それを『一子地』というのです。

だから、この一文から、「阿弥陀さまは、私のことを、一人っ子のように、大事に大事に思ってくださってるんですよ」と言うことができるのです。



・親鸞さま
以上が、「皆さんお一人お一人が、阿弥陀さまのたった一人の可愛い子」と、どうして言えるのか、ということについてのお話でした。



・阿弥陀さま
さすが親鸞さま!『平等心』や『一子地』という言葉を用いて、私の親心を和讃のかたちで見事に表現してくださってますね。素晴らしいです。その通りです。



・ブンチョウ
皆さんお一人お一人が、阿弥陀さまのたった一人の可愛い子。

つまり、阿弥陀さまのたった一人の可愛い子とは『文長』のことなんですね。

親鸞さま、阿弥陀さまのお心を分かりやすく説明してくださって、ありがとうございました!



・親鸞さま
どういたしまして。阿弥陀さまに褒めていただいてとても嬉しいです。

それでは、ここから、『ご信心』と『たった一人の可愛い子』の関係性について、お話ししていきたいと思います。

ご信心を得ると、どうなるかというと、

「あー、あなたが本当のお父さんお母さんでしたね」と、心から思える心が起きてくるのです。

私一人のためのご苦労をいただくわけですね。

「南無阿弥陀仏ができたのは、私一人のためだったんですね」と、受け取れるようになるんです。だから反対に、受け取れなかったら本当ではない、ということです。

「南無阿弥陀仏ができたのは、私一人のためだったんですね」と、受け取れないとはどういう感じかというと、

「長い長い時間をかけてご苦労してくださった。すっごく長い間考えて(五劫思惟)、それからさらに想像もできないほど長いこと(兆載永劫)修行してくださった」ということを聞いても、

「ふーん、そりゃ、たーくさん衆生がいるものね。虫もたーくさんいるものね。これみんな救おうと思ったら、そりゃ、むっちゃ長いこと修行せんとあかんよね」

という感じです。自分事として南無阿弥陀仏のいわれを聞けてないわけです。

「私一人、文長一人のためにそれだけかかった」と言えるかどうか。そう思えているかどうか。

ここが『信心をいただいたかどうかの目安』になります。



・ブンチョウ
「私は、阿弥陀さまの一人っ子です」と言えるかどうか。つまり「みんなを救う」ではなくて「他の誰でもない、この私こそが阿弥陀さまのお目当てです」と言えるかどうかが『信心をいただいたかどうかの目安』になる、ということですね。



・親鸞さま
そうです。ブンチョウくん。

そして、そう言えない。そう思えない。『疑ってる』ってことです。

疑ってるということは、一番深い罪なのです。

つまり、『仏さまを疑う心』のことです。



・ブンチョウ
一般的な感覚で言うと、「仏さまを疑うって、そんなに重いことだろうか?人を殺したりとか盗んだりとか、そういう方がよっぽど周りの人に迷惑かけると思う。なのに、一番重い罪が仏さまを疑うことだなんて、それはどういうことなんだろう?」って感じだと思います。

でも、疑うということは、一番深い罪なのですね。



・親鸞さま
そうだよね。一般的な感覚で言うと、仏さまを疑うことって、そんなに悪いことだと思わないよね。

だけど、文長は覚えてないけど、遥か昔から生まれ変わり死に変りして、今までずーっと、阿弥陀さまを待たせてきたのです。阿弥陀さまに願われて大事にされてきたのに、その阿弥陀さまを裏切ってきたわけなんです。「どうか救わせておくれ」という阿弥陀さまの気持ちを踏みにじってきたのです。

そのことが一番深い罪なんです。



・親鸞さま
「仏さまを疑うことは一番深い罪ですよ」ということに、うなずく。「なるほど、そういうことですか。悪いことであったな。申し訳ないことだったな」と、うなずけるようになる。

ここが大事なポイントなのです。



・親鸞さま
阿弥陀さまは「私を疑ってたら救われへんのやで。そういう気持ち、あるんとちゃうか。ちょっと考えてみてくれるか」と、言ってくださっているのです。

阿弥陀さまは、これを聞いてほしいと思われているのです。

「自分はこれほどまでに阿弥陀さまに心配をかけている。大事にされて願われている」ということがみえてこないと、「私一人のための南無阿弥陀仏なんですね」ということも、はっきりしないのです。



・ブンチョウ
分かりました。当然かもしれませんが、親鸞さまも、お釈迦さまと同じことを言われるんですね。

ここでも問題になるのは、『仏さまを疑う心』なんですね。

そして、「悪いことであったな。申し訳ないことだったな」と、うなずけるようになることが大事なんですね。



・親鸞さま
そうなんです。ただ、ただね、私は、ひとこと言っておきたいことがあるんです。

私は、「罪悪感を強く感じれるようになりなさい。申し訳ないと心から思えるようになりなさい」と、言いたいわけではないのです。

たしかに、「悪いことであったな。申し訳ないことだったな」とうなずけるようになることは大事なんですが、私たちは、そのように「悪いことであったな。申し訳ないことだったな」とみていけるのは『気持ちに余裕があるとき・機嫌が良いとき』だけなんです。

実は、腹底では「阿弥陀さまなんてどうでもいい」と思ってる自分だったりするのです。

なぜかというと、「悪いことであったな。申し訳ないことだったな」と思うことがあっても、もし他人から「ほんまや。あんたほど悪いヤツは見たことないわ」と言われたら腹が立つ、ムカッとくる。

私たちの罪悪感とは、その程度のものなんです。

だからそういう意味で、腹底では「阿弥陀さまなんてどうでもいい」と思ってる自分である、と言えるのです。

『悪いこと・申し訳ないこと』を、「悪いことであったな。申し訳ないことだったな」と心から思えない文長、「阿弥陀さまなんてどうでもいい」と思ってる文長、そんな文長であることが『より一層申し訳ないこと』なんです。これが事実なんです。

そういうところまでみてほしいのです。



・親鸞さま
ここで私が言いたいことは、「罪悪感を強く感じれるようになりなさい。申し訳ないと心から思えるようになりなさい」ということではなくて、「心配をかけてる事実・申し訳ない事実をみましょう」ということなんです。



・ブンチョウ
自分の『感じ・感覚・実感』に注目するのではなく、「事実をみましょう」ということですね。



・親鸞さま
そういうことです。



・ブンチョウ
はい、分かりました! 事実をみていきます。



・親鸞さま
では、ここで『信心をいただいたかどうかの目安』をまとめておきます。

ポイントは二つです。

◆1.今日、命がなくなるとしても、「自分の命を阿弥陀さまにお任せできるから大丈夫や」と言える気持ちがあるかどうか。

死にたくはないけど死ぬとなった時に、「 死んだ先のことは、阿弥陀さまにお任せできます 」と言えるか。

後生をかけて聞く。「後生はどうですか?」ということですね。

◆2.阿弥陀さまが、本当に自分の親、ほんまの親だと思いますか?

阿弥陀さまが、私を一人っ子のように思ってくださっていて、可愛い可愛い一人っ子のために南無阿弥陀仏を作ってくださった。私一人のための南無阿弥陀仏であったと聞けてますか? どうですか? ということ。

阿弥陀さまが、本当の私の親。阿弥陀さまから見ても、私は一人っ子。「そう思えてますか?」というところが大事なんです 。

『みんなを救う阿弥陀さま』という捉え方だったら、ご信心があるとは言えない。

以上の二つです。



・ブンチョウ
◆1.「 死んだ先のことは、阿弥陀さまにお任せできます 」と言えるか。

◆2.「阿弥陀さまは本当の私の親。私は阿弥陀さまの一人っ子です」と言えるかどうか。つまり「みんなを救う」ではなくて「他の誰でもない、この私こそが阿弥陀さまのお目当てです」と言えるか。

この二つが『信心をいただいたかどうかの目安』になる、ということですね。



・親鸞さま
そのとおりです。よく聞いてくれましたね。では、話を続けます。

ここからは、『阿弥陀さまの親心・お姿』を、詳細に、具体的に、語っていきたいと思います。



・ブンチョウ
よろしくお願いします。



・親鸞さま
阿弥陀さまのお心『平等心・一子地』について、涅槃経の梵行品に書いてあるものを、文長に置き換えて読んでみます。


「本当にありとあらゆる命を持ったものが、私(阿弥陀さま)のたった一人の子供であると思ってくださっている。そして、煩悩に苦しむ文長、まさに今日の文長、そういう文長を見て、『ああ、なんて可哀想なことだなぁ』と、自らとても悲しまれるのです。『なんて辛い思いをしてるんやろうなぁ』という風に感じられる。そして全身の毛穴から血を流し、愚かな救われない文長が地獄に落ちるのを見て、『私も地獄に生まれてみせる。私も地獄に生まれたい。可哀想に、一人で地獄に落ちて。私も同じところに生まれますよ』と、願われる」



そのぐらいのお心なんです。

グループの光雲先生は、日頃、「仏さまは目から血の涙を流しておられるんですよ」と、少し控えめに言っておられるけれど、ここでは、『全身の毛穴から血を流し』と書いてあるんです。

毛穴から血が出るってことは、もう、仏さまは金色ではなく『真っ赤』ですね・・・

文長がそうさせている。

「そんなにひどくないでしょ」って思うのが文長の本性でしょうね。

「そんなに血を流させるほど悪いことはしてないよ。いやそんなに辛くないから」とか思っているのは、文長には自分の本当の姿が見えてないから。

仏さまから見たら全部が見えるから『血を流して』悲しんでくださっている。

だから、こういった親さまである仏さまをずっと待たせてるっていうことは、「これほど申し訳ないということはない」というわけなんです。

「申し訳ないな。仏さまを待たせてるんだな。それはものすごい大きな罪なんだな。ずっとずっと待たせ続けてるんだな」ということを、 聞かせてもらうのです。



・ブンチョウ
「阿弥陀さまは、血で真っ赤・・・」

ショッキングです… 血の涙どころではないですね…

阿弥陀さまは、たった一人の子供である文長が煩悩に苦しんでいる様子を見られて、全身の毛穴から血を流して、「なんて可哀想なんや!」と悲しんでおられるのですね…

文長が地獄に落ちるのを見て、「私も地獄に生まれてみせる!私も地獄に生まれたい!可哀想に… 一人で地獄に落ちて… 私も同じところに生まれます!」とおっしゃっているなんて…


文長がそうさせているのですね…


阿弥陀さまから見たら、文長の本当の姿全部が見えるから、『血を流して』悲しんでおられるんですね…

たしかに、真っ赤になった阿弥陀さまを、ずっと待たせていることは、本当に罪なことです… 申し訳ないことです…

「申し訳ないな。仏さまを待たせてるんだな。それはものすごい大きな罪なんだな。ずっとずっと待たせ続けてるんだな」ということを聞かせてもらうことが大事、ですね。



・親鸞さま
そういうことです。

こんなにも待たせている。親として子供に出あえない、子供が辛い目にあっている、というのはもう本当に辛いことですね。

文長はそのことをよく考えてみることです。



・親鸞さま
「今生で、どうして法を聞かしてやることができなかったんだろう。なんで南無阿弥陀仏が届かなかったのか。私がもっと、何をするべきだったんだろうか。でももう、必ず聞いてくれるまで、私は絶対に諦めないよ」と、血を流しながら追いかけてくださってる。それが阿弥陀さまのお姿なんです。

その、親さま。

「あーそうでしたか。阿弥陀さまが私の親やったんやな。そうやったんや」と、うなずけるようになるのが、ご信心なんです。

「たった一人の親であり、私はたった一人の可愛い子供であった」と受け取れるようになるのが、ご信心なんです。



・ブンチョウ
「ご信心の姿というものが、どういうものなのか」ということが、よく分かりました。

ここは、とても大切なお話だと思います。



・親鸞さま
ブンチョウくん、よく聞いてくれてありがとう。

ここまでが『信心をいただいたかどうかの目安』と『阿弥陀さまの親心・お姿』のお話でした。

では、ここから、私たち聞法者の【求道のありかた】について、説明していきます。

それは『日常の具体的な自分の姿をみていく』ということです。

日常のなかで、自分が心と体でやっていることをみていき、それを目当てにされた阿弥陀さまの『願い・ご苦労』を知っていく。

そうすることで、文長は、阿弥陀さまを自分の親だと知るようになるのです。



・ブンチョウ
日常の具体的な自分の姿が、そのまま阿弥陀さまの『願い・ご苦労』に直結しているのですね。



・親鸞さま
そうです。自分の罪悪・煩悩のなかでこそ、阿弥陀さまの親心を知ることができるのです。



・親鸞さま
親にやってもらったことを知ることは大事です。

文長が、自分の親を親と思うのは、親にやってもらったことを、知ってるからですね。

だから、文長が阿弥陀さまを親と思うのも、同じことなんです。

自分が生まれた時を見てたわけじゃないけど、親が一生懸命育ててくれた。一生懸命働いてくれた。それは文長のため。

お金を稼いでくれた。電気・水道・ガスに不自由したことがない。学校・塾に行かせてもらった。ご飯・お弁当を作ってもらった。服を買ってもらった。洗濯・掃除はまかせっきり。部屋を与えてもらった。あったかい布団で眠ることができた。病気になったら病院に連れていってもらった。とても心配してくれた。お箸の持ち方を教えてもらった。「食事中は肘をつかない」などマナーを教えてもらった。人間らしく育ててもらった。いつも愛情を注いでくれた。

そんな、当たり前と思ってることが、一つずつ親にやってもらったことなんです。そういうお育てがあって今があるのに、文長は今、一人で大きくなったみたいな顔をしている。

そういう『親にやってもらったこと』『それを当たり前と思っている恥ずかしい自分』のことを、知っていく

知っていくと「ああ、親には頭が上がらんな。親には良くしてもらったな」と、思うようになるんです。



・ブンチョウ
文長は、親にやってもらったことが、たくさんありますね。

それを知っているから、文長は、自分の親を親だと疑わないのですね。



・親鸞さま
そういうことです。実にシンプルです。だからそれは、阿弥陀さまもそうなんです。

文長は、阿弥陀さまにやってもらった、たくさんのことを知ると、阿弥陀さまを自分の親だと自然に思うようになるのです。



・親鸞さま
「いま、いま、いま、阿弥陀さまは血を流して待っておられるんやな。申し訳ないことやなぁ。『南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏』と、私に向かって言ってくださってるんやな」と、聞いていく。

先ほども言いましたね。「申し訳ない」って心から思えなくてもいいんですよ、別に。

でも、「そういうふうに光雲先生が言ってたなぁ。ほんまやったら、もったいないことやな」とかね、そういう感じで考えてみる



・親鸞さま
文長は、毎日毎日、いろんなものの命を取ることの繰り返しです。まずいとかうまいとか言いながら。

あるいは、喧嘩をする。仲良しの家族でも喧嘩をする。「自分が正しい」ばっかりですよね。

「自分が正しい。自分の思いを通したい。負けたくない」そういうことで罪を作っていきますね。

嘘をついたり、 傷つくようなことを言ったりとか。でも、それがやりっぱなし。

文長はやりっぱなしでも、阿弥陀さまがちゃんと見ていてくださっていて、「そういうことで地獄には落とさんぞ。私が代わりに地獄に落ちるよ」と、一つずつ言ってくださっているのです。

一つずつ、阿弥陀さまが、許して、文長を、守ってくださる。

「ああそうか。親だからこういうことを言ってくれるんかぁ」
     
さっきの、「申し訳ない」って心から思えなくてもいいんですよ、という話と同様に、ここでも、「本当と思えない」という自分の思いは、横に置いといてもらったらいいんです。

でも実際に食べちゃったわけですから、実際に嘘ついたわけですから、だから、その事実をみていく。『事実を淡々とみていくことが罪悪をみる』ということです。

「あー、これを償うって、これを阿弥陀さまが背負ってくれるって言ってるんやな。それは親不孝やな。自分はこうやってずっと待たせてきたんやなぁ。申し訳ないことやな。もう待たせたままで死ぬわけにはいかんな」と『考えて』みる。

自分の気持ちは置いといて『考える』ことで、親と出あえるようになるんです。

親と出あえるようになる。具体的に考えて。

阿弥陀さまが寄り添ってくださってる。寄り添ってくださってるから、阿弥陀さまは、文長の本当の姿を、全部見てるんです。

「そうだとしたらもったいないな」と考えていく。そうしていけば、必ず阿弥陀さまにあえます。



・ブンチョウ
具体的に考えていけば、必ず親と出あえるようになるのですね。



・親鸞さま
そうです。そういうことです。

自分が思えないっていうのは横に置いておいてくださいね。「事実としてそうなんだな」と、聞いていってください。

一子地。「私はたった一人の一人っ子なんや。可愛い可愛い一人っ子なのに、お母さんを待たせてるんやな」

信心というはちすの花をもらうのは、文長なんです。

阿弥陀さまの可愛い子がもらえるんです。そのはちすの花を受け取ってください。必ず受け取れます。遠くにしないで。受け取れます。

求道は非常に苦しい時もあると思います。「でも阿弥陀さまはもっと苦しいんだってな。阿弥陀さまはもっと待ってて、苦しいんだよね」って、思い出してほしいです。



・ブンチョウ
分かりました!

親鸞さま、『求道のありかた』を詳しく説明してくださって、ありがとうございました。

日常の具体的な自分の姿をみていく。

日常のなかで、自分が心とからだでやっていることをみていき、それを目当てにされた阿弥陀さまの『願い・ご苦労』を知っていく。

親にやってもらったことを知っていく。

そうすることで、文長は、阿弥陀さまを自分の親だと思うようになるのですね。

「 事実としてそうなんだな」と聞いていくことがポイントで、自分が思えないっていうのは横に置いておくのですね。

自分の気持ちは置いといて、具体的に考えることで、親と出あえるようになるんですね。



・親鸞さま
そういうことです。ブンチョウくん、最後までよく聞いてくれましたね。

これで、私の話は終わりです。



・阿弥陀さま
親鸞さま、ありがとうございました。

「皆さんお一人お一人が、阿弥陀さまのたった一人の可愛い子」と、どうして言えるのか、ということについて、浄土和讃を通して説明していただきました。『平等心』『一子地』がキーワードでしたね。

次に、『信心をいただいたかどうかの目安』には、二つのポイントがあること。『後生をおまかせできるか』『本当の親・一人っ子と言えるか』でしたね。

あと、『私の親心・姿』を、詳細に、具体的に、語っていただきました。「血で真っ赤・・・」という言葉、ショッキングでしたね。

最後に、聞法者の【求道のありかた】について、説明していただきました。「日常の具体的な自分の姿をみていく。親にやってもらったことを知っていく。具体的に考えていくことで、親と出あえるようになる」というお話でした。



・阿弥陀さま
親鸞さま、大事なところを分かりやすくお話ししてくださって、本当にありがとうございました。

とっても頑張っていただきました。さすが私の息子です。

可愛い可愛い親鸞さま。あなたはたった一人の私の息子です。私はあなたのことが大好きですよ!



・親鸞さま
阿弥陀さま!ありがとうございます!私はその言葉が聞きたかったのです!

苦手な舞台に立って、頑張ってお話しした甲斐がありました。

阿弥陀かあさん、私も、おかあさんのことが、大好きです!

ありがとうございました!



・ブンチョウ
親鸞さま、阿弥陀さまに「たった一人の可愛い息子です。大好きですよ!」って、言ってもらって、ほんとよかったですね!

今日は、大切なお話を聞かせていただいて、本当にありがとうございました!



(おしまい)

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