最後のクリスマス~あの日の緩和ケア病棟

✳️病気や看取りの話なので、ご注意ください。

10年前のクリスマス・イブの日、仕事を終えた私は、急ぎ足で病院に向かいました。
母が入院している病棟での、クリスマスパーティーに参加するために。

正直、気は重かったです。 
だって、母がいるのは、緩和ケア病棟。明るくお祝いなんていう気持ちには、とてもなれない。
母自身も、参加しないと断言していました。そりゃそうです、もう癌が進行し、ほとんど寝たきりの状態で、自身に近い将来起こる事もわかってる中で。
他の入院患者さんは、どうなんだろう。まあでも、達観して楽しむ方もいらっしゃるのかな。もしくは、ご家族もいない方なら、いつもより賑やかな雰囲気は、嬉しいものかもしれない。
しかし、母はおそらく参加しないから、それなら尚更、私が付き添っている方がいいだろうな。気を逸らすためにも。

「沈黙の臓器」と言われる膵臓の病気で、異変が出てきて、近所の医院を受診した時には、手遅れでした。
このままだと、あと3ヶ月。
抗がん剤治療の可能性もあったけれど、検査により、もう治療に耐えられないと判断され。
検査入院中に、今後、在宅で看取るか、緩和ケア病棟を利用するかの選択を、迫られることとなりました。
家族は、当時80代の父と、娘である私のみ。猫もいましたが。父は、耳が遠いうえに、真剣な話が苦手。誰が見ても、キーパーソンは私。
そのどうしようもない事実が、嫌でたまりませんでした。
ほら、複雑な家庭だと、こうなるんだと。日頃から付き合いのある親類もいないから、私が全てしなくてはならない。
こんな大きな決断も、私にかかってる。

どんどん体力が低下し、トイレに行くにも介助が必要、普通の食事も困難。父も猫も手がかかる。仕事も簡単には休めない。
母には本当に申し訳なかったけど、私の下した決断は、「在宅では無理」でした。
それを主治医の先生に伝えた日、「ごめんなさい」と共に、悲しさ、悔しさ、独りではしんどいこと、いろんな思いが溢れ出て、泣き崩れたのを覚えています。母の前では泣けない私を、ナースステーションの中でしばらく泣かせてくれた。あの時の看護師さん達には、感謝しかないです。

緩和ケア病棟に入ってから、約2週間という頃、クリスマスを迎えました。
当日、何度か、パーティーへの声がけをいただいたけれど、やはり、母は参加を断固拒否。ロビーで、病棟スタッフさん達が、出し物をしたり、皆で歌ったりしていたけれど、母と私は、個室で静かに過ごしていました。
そしたら!
突然(もちろんノックはありました)、サンタクロースやトナカイ達が、私達のもとへやってきたのです!
びっくりして、細かい事は覚えてないけれど、楽しい会話で盛り上げてくれて。やや強引だったけれど、母を起き上がらせ、記念撮影。クリスマスプレゼントまでもらってしまった!
そのノリのまま、母と私は、ロビーに連れ出され、最終的には、他の患者さんと一緒に、歌を歌いました。
ボロボロと涙がこぼれました。だって、ここにいる患者さんには、来年のクリスマスはない。なのに、こんな笑顔になれるなんて。患者さんすごい。スタッフさんすごい。
人間ってすごい。生きるってすごい。

あの日を境に、私は、自分がキーパーソンであることを受け入れたうえで、独りで抱えないよう、細かい事でもスタッフさんに相談するようになりました。
年末、私の友達たちが帰省してきた際は、気分転換に少し遊んでくることも、病院にOKしてもらいました。急な事があれば、すぐ連絡してもらうようお願いもして。
久々に友達とお喋りした後の、病院への帰り道。不謹慎な行動のはずだけど、正直、清々しかったです。 
今年はこんなクリスマス、お正月だけれど、一緒に頑張ってくれてる人もいるし。心配事のない人は、ゆっくり楽しめばいいし。それぞれの、その時の在り方でいい。私はこれでいい。

年が明けて、1月半ば、そんな日々が終わりました。
病院を去る時、父と私は、笑顔でスタッフさんに挨拶ができました。スタッフさんからは、クリスマスパーティーの日に撮った写真をいただき、患者さんだけでなく、遺される家族のために、全力を尽くしている、というお話が聞けて、「緩和ケアって深いな」と痛感しました。勉強したいな、と思ってしまった…けれど、やはり私は、心身耐えられないお仕事かな、と思っています。
帰宅して、荷物を片付けます。病院で貰ったクリスマスプレゼント、余裕がなくて、開けていなかった。
開けると、出てきたのは、フォトフレームでした。最期の一枚を入れるための、私へのプレゼントだったのですね。

改めて、医療に携わる皆様への感謝したいと思う、2020年です。

ちょうどあの頃、リリースされた、大好きなBUMP OF CHICKENの曲です。
メリークリスマス🔔

https://youtu.be/QJaareN2z00