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石原特殊鎖製作所 16

僕が通っていた中学校に伯父が教師としていたらどんなに良いことだろうか、と何度も思っていた。

僕が通っていた中学校に伯父がいたら他の教師と同じようになるのではないか、という疑問を持つことは全くなかった。だからこそ、僕は中学3年生の一学期にあった修学旅行の直前に伯父が脳溢血で倒れたと聞いたとき、修学旅行よりも伯父に付き添うべきだと思ったし、実際に僕はそれを母に伝えた。修学旅行など行かなくても良いから、伯父がもし死んでしまったら、死んでしまうのなら、今会いに行きたいと。
後で伯母から聞くと、朝起きると伯父の様子がおかしかった、ということだった。
起こそうとしても伯父は目覚めることがなく、おかしないびきをかいていた。何度起こそうとしても起きなかったので、流石にこれはおかしいとわかり、すぐに救急車を呼び、運ばれた病院で緊急手術をすることになった。
学校から帰ってきた僕に母は、伯父が回復することは難しい、持って1日、長くて3日だろうと伯母が医師から言われた、と言った。

1日持つかどうかも分からない、と最初言われ、僕はすぐに伯父に会いに行きたいと言ったが、母はそれを止めた。死んでしまうかも知れないのなら、今行っても仕方がないと判断したのだろう。けれど、僕はだからこそ伯父に会いに行きたかった。学校に行っている場合ではなかった。のんきに授業を受けている場合ではなかった。そして、その夜が過ぎ、朝を迎え、伯父は持ちこたえていたことを教えてもらい、学校へ行った。学校では、ずっと伯父のことを考えていた。あの伯父が死んでしまう。
勉強などどうでも良いから早く伯父に会いに行きたい。そして、その日に帰ると、持って3日でしょうと医師から伯母が言われたと母が僕に言い、3日経った。そして、3日経った後、医師は1週間が山場と伝え、そしてなんとか週末まで伯父は生きていて、僕らは伯父が入院している病院に行った。

伯父の身体にはいくつもの管がつながっていて、目は閉じられていた。
頭の手術をしたのだから、頭の骨を外したはずで、頭に包帯やらなんやらが巻かれていたはずなのだけれど、僕が覚えているのは、その頭ではなく、伯父の身体に無数につながられている管だった。
伯父が今意識があるのかどうか、目が覚めているのかどうかも分からなかったけれど、伯母が「耳は聞こえているみたいなの」と言い、ひろちゃんも何か言ってあげて、と促されたものの、僕は何を言えば良いのか分からなかった。
それは、僕がいつも伯父と父らが話しているのを聞いているだけで、自分からはあまり話さなかったことや、そして、何よりも、沢山の管につながっていて、意識があるのかないのかも分からない人を目の前にしたのが初めてだったからだった。

それでも、僕は何か言った。
そこで僕が何を言ったのかは覚えていないのだけれど、僕は同時に伯父の手を握った。握ったというよりも触れたという方が近い気がする。
伯父の手は温かく、確かに生きていることが分かった。伯父が握り返してくることは当然なかったけれど、確かにその温かさは、伯父が生きていることを僕に伝えていた。

まずは1日、そして長くて3日と言われていた伯父は、その後一週間と言われ、結局その後僕が大学1年生になるまで生きていた。
脳溢血による脳へのダメージはかなり重く、長い間伯父は身体を動かすことが出来なかった。その4年間の間、一番調子の良い時で、右手が少し動くくらいで、殆どは目を動かすことで伯父からの意思を読み取った。
母があいうえおと大きく書いた50音の文字盤を作り、それを伯父の目の前に向けると、伯父が目でその文字盤で意思を伝えた。
伯母は伯父の目線で伯父の言いたいことを読み取り、会話をしていた。

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