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石原特殊鎖製作所 10

僕の耳と心臓に雑音があるのは、もしかしたら、母が10番目の子どもで、歯がなかったり、もろかったりするように、子どもを産むには何かが損なわれていたのかも知れないけれど、それでも僕は耳と心臓の雑音以外には問題はなかったし、その2つとも特に生活に支障のあるようなものでもなかったので、その原因を調べて特定することなど出来ないことなのだと思う。

骨髄提供者としての手続きを一旦止め、心臓の精密検査を受けている間に、赤十字社の人から、患者さん側の理由で、今後の手続きには進まないことになった、と伝えられた。
それはほんの少しもそれを感じさせることのない、丁寧で、繊細でかつ簡潔な言葉で説明されたことなのだけれど、僕が骨髄を提供する候補者になっていた患者さんは、僕が心臓の検査を受けている間に死んでしまったのだと思う。
提供候補者は数人いるということだったけれど、ドナー登録している人が少ない中、なんとか候補者を見つけ出し、僕が候補者になって初めて分かったことだけれど、様々な検査をクリアしなければ、本人にどんなに提供する意思があっても提供することが出来ないことを考えれば、その間に骨髄を必要とする患者さんの病態が悪化し、死んでしまうことは十分に考えられることだった。

友人も一度、赤十字社の人から連絡があったけれど、その時妊娠をしていたので、それを伝えただけで終わってしまった、とのことだった。
また、僕にはその後一度赤十字社の人から、自分が骨髄提供の候補者になったという連絡が来たことがある。その時、僕は常用している薬があって、それを伝えたら、ドナー登録の休止を伝えられてしまった。
僕の身体だけでも誰かの助けになれば良いと思うのだけれど、現実はそれを許してはくれなかった。それは、骨髄を必要とする人の病気がそれほどまでに厳密に管理された中で向き合わなければならないものだということを伝えているし、それほどまでに厳しい病気なのだということも伝えている。
だからこそ、僕が初めて連絡を受けたその患者さんは死んでしまったのではないか、と僕は勝手に考えているし、僕が少しでも役に立つなら骨髄でも何でも提供したいと思っているのだけれど、それも叶わないことだった。

僕の身体はそういう風に、日常生活には何の問題もなく、僕自身も困ることはなかったので、僕が抱えていた一番の問題は両親に依存している生活、特に主に父親の収入に頼っているお金だった。僕が小学生の高学年になると母は「お小遣い稼ぎ」と言いながらパートで働くようになっていたが、どう考えても僕が私立の大学に進むことはこの家庭の経済に大きな打撃を与えると分かっていたので、両親に大学に進んで良いのかと聞いた時はものすごく緊張した。
けれど、両親はそんなことは気にしなくて良い、と言い、実際になんとかなった。

僕は私立の高校、その高校は父と父の兄である伯父と同じ学校だったから、中学生だった僕は自分が育った家庭の経済状況など全く考えることなく、予想することもなく、父の母校だから、という理由でその高校に入学し、通っていた。
高校2年生の時には学校で行われていたオーストラリアへの短期留学も行きたいと言ったら、何も言われずに行くことが出来た。
けれど、高校2年生になって始めたアルバイトで、お金を稼ぐことの大変さを初めて知った。僕のその時の時給は750円で、9か月くらい経って昇給された時給も20円程度上がっただけだった。

学校の授業が終わり家に帰ってから、自転車に乗り、アルバイト先に向かい、22時頃まで働いた。そして、なんとか手に入った給料は多くても7万円くらいだった。夏休みの間ずっと働いていたけれど、その時でさえ10万円くらいだった。そうして、僕はお金を稼ぐことはいかに大変なことなのか、大学に進学すると必然的に必要となる年間100万円近くのお金を稼ぐこと、それが両親に負担をかけてしまうことを知った。
そして、その時僕が見ていた家庭の経済状況は、そもそもこの私立の高校に僕が通えていることさえかなり両親が踏ん張っているからであり、短期留学をのんきに望んだ僕は間違っていた。

その年間約100万円ものお金を払ってもらうに見合うほどの経験や知識を大学で得られるとは到底思えなかった。

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