見出し画像

石原特殊鎖製作所 43

父が残しておくと判断したモノを見ると、祖父の手書きの履歴書や、満州に関わる、例えば地図などが残されていた。

僕は祖父のことを殆ど知らない。
祖父は両親が結婚する前に死んでいたので、当然僕は会ったことがないし、父は家族のこと、あるいは自分のことを語る人ではないので、小さな時にどんなことをして過ごしたのか、どんな経験をしてきたのかということも殆ど知らない。
知っているのは、父が中学生の頃に祖父の仕事の関係で東北から関東にやってきて、僕が通った高校と大学に行き、業界では名を知られているけれど、一般的にはあまり知られていない中規模の会社に入り、35歳くらいで母と結婚し、僕が小学生5年だか6年だかの時に転職したということだけだった。
他に知っていることと言えば、東北に住んでいた頃、冬に濡れたタオルをわざと外に出して一晩おいておくとカチカチになり、それが面白かったと言っていたことと、祖母は東京生まれなので、そこでの暮らしに不満を持っていたということ、そして、祖父は故郷で高校の教師をしていたと言うことだけだった。
父が生まれ故郷でどんな生活をしていたのか、そこでどんな経験をしたのか、どんなことをして過ごしていたのか、それと同様に、関東に引っ越してきてから、どのように過ごしてきたのか、また大人になってから、母と結婚するまでどう過ごしてきたのかも僕は殆ど知らない。

祖母の家を片付けたとき、満州に関する資料が出てきたのは祖父が高校の教師をしていたからなのだと思う。祖父自身は兵役に就いたということを聞いたことはないし、年齢的にも太平洋戦争の時にはすでに50歳は超えていたのだから、少なくとも太平洋戦争には参加していない。
それと、実際に何が理由だったか忘れたが徴兵検査で丙と判断され、徴兵されなかったと聞いたような気がする。
なので、何故祖父が満州に関する資料を多く残していたのか、どうやって手に入れたのかは分からないけれど、高校で社会科の教員をしていたことが多分関係しているのだろうと思う。

関東に来てから、伯父と父は、祖父が勤めることになった祖父の母校でもある大学の系列校である高校に行くようになった。それは、祖父が勤めていたから授業料を払わなくて良いということが大きかったようなことを父は言っていた。今はどうなっているのか分からないけれど、教職員の子どもは授業料が免除され、施設維持費だけ払えば良いということで、高校も大学も、特に大学は今では全く信じられないけれど、東京六大学の中でも「学費が安いから」というだけで入学する人がいるくらい――僕が大学に通っていたときに実際に父と同世代、あるいは少し下の年代の教授から聞いた――学費が安かったようで、その学費さえ払わなくて良いということは、伯父と父がその大学に通ったとても大きな理由なのだと思うし、実際に、父は授業料がタダなんだから、取れるものはとっておいた方が良いと、卒業に関係のない授業も出ていたと言っていた。
けれど、単に祖父も通っていた大学に進めることももしかしたら影響していたのかも知れない。

結果的には僕もその高校と大学に進んだので、その大学には祖父、伯父、父(と母)、僕が通ったことになり、高校には伯父、父、僕が通ったことになった。
高校の校舎は父が通い始めたときに新しく出来たもので、僕も父が通ったのと同じ校舎で高校3年間を過ごしたけれど、その時にはすでに40年近く経っていたから、コンクリートの塊とでもいう建物で、夏は暑く、冬は寒かった。
僕らが高校2年生になるときに中学も併設され、図書館の上が中学生たちの一時的な教室となったと同時に、食堂は取り壊され、中学棟の建設が始まった。
結局僕が通った3年間の内、2年間は食堂もなく、毎日購買で買うツイストドーナツがお昼ご飯になった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?