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石原特殊鎖製作所 17

伯父の身体が一番調子が良いときは、車椅子にも乗ることが出来た。
もちろん伯父自身が自分で車椅子に乗ることや、車椅子を操作することは出来なかったけれど、伯父が乗った車椅子、そして伯父の身体につながられた点滴とを伯母が押して病院内を散歩していた。
僕らが伯父に会いに行くと、伯母はもちろんのこと伯父も起きていれば嬉しそうにしてくれた。
伯父は顔の筋肉も殆ど動かせなかったけれど、僕らがいると僕らの方に目をやり、僕らがいること、僕がいることを嬉しそうな目をしてくれた。

僕はその時にはその言葉を知らなかったけれど、伯父は重度身体障害者ということになり、僕が初めて出会った重度身体障害者が伯父ということになった。
伯母は毎日伯父がいる病院に通い続け、伯父と向き合った。
今考えると、それが出来た伯母はものすごいことをしていたのだと思う。
伯父は病院にいたので、排泄物の処理や清拭、あるいは沐浴などは伯母もあまりしなかったのだろうけれど、それでも毎日通い続け、4年ちょっとの間、伯父と向き合ったというその時間を過ごした伯母がしたことは、本当にすごいことなのだと思う。
僕が誰かに対してそれが出来るかと聞かれたら、自分の子どもであってもそれはかなり難しいのではないかと思う。
だからこそ、伯父は最初医師から言われていたように1日持つかどうか分からないという時を乗り越え、4年間も生きることが出来たのだと思う。
伯父自身も懸命に自分の身体に向き合うとともに、そこに伯母という存在がいることでしか、それはなし得なかったことなのだと思う。

伯父の身体は山場を越えた。けれど、それは長く生きられることを意味してはいなかった。
僕らはなるべく行けるときに伯父がいる病院に行った。
ただ眠っているときもあれば、車椅子に乗っているときもあったが、殆どの場合は伯父はベッドで横になっていた。僕が高校生になってもそれは続いた。
僕は今、自分で行きたいと思ったときに伯父に会いに行けば良かった、と後悔している。
もし、そうしようと思えば出来たのだから。

伯母と母は仲が良いので、何度も伯父のお見舞いに行ったけれど、たとえ伯父が寝ていても、起きていても目だけしか動かせなくても、右手というか、右手の指がほんの少し動かせるだけだったとしても、僕はもっと伯父に会いに行きたかった。会っておくべきだった。
単なる言い訳にしかならないけれど、僕は伯父のように突然身体が全く動かせなくなってしまった人、突然ではなくても身体の殆どを動かせなくなってしまった人に会うのが初めてだったし、伯父のいる病院に僕自身の意思で1人で行って良いということも考えることが出来なかった。
高校生になっていたのだから、学校がある日だろうがない日だろうが、自分の意思で会いに行けたのだ。
少しくらい遠かったとしても、自分が暮らす家から1時間半くらいかかるとしても会いに行けば良かった。

けれど、僕はそれをしなかった。
会いたい人に会いたいという気持ちで会いに行く。
そのシンプルなことが僕には出来なかったし、しなかった。それは僕の幼さや無知がもたらしたものだとしても、僕は伯父に会いに行くべきだった。
1人だとしても会いに行くべきだった。

時々会う伯父はもちろん元気とは言えず、ベッドに横になっていたけれど、いつの間にか僕の中ではそれが当たり前のことになっていた。
だからこそ、会いに行かなかったのだ。
たとえ殆ど身体を動かせないとしても伯父は生きていたので、僕は伯父が生きているということに安心していた。

僕が高校を卒業し、大学に入学する頃に伯父の具合が悪化していることを聞いた。
けれど、それでも僕は自分から会いに行くことをしなかった。
そして、前期試験の最中、アルバイト先から家に帰ると、伯父が死んだと母から言われた。
お通夜が2日後、3日後に告別式になる、と。
僕はお通夜がある2日後に試験が一つ入っていた。
両親はひろはまず試験を受けなさい、そして試験が終わったら来れば良い、と言った。

僕はそうして、その日、大学の入学式のために作ってもらったスーツを着て大学に行った。
黒のネクタイを持っていなかったので、父がその日の朝僕に渡し、僕はそれを鞄に入れた。
スーツ姿で大学に来た僕に同じ授業を受けている人たちは一瞬目を向けたり、何人かは実際にどうしたのか、と聞いてきた。
葬式がある。僕はそれだけを言い、誰よりも早く試験問題に対する答えを書き上げ、もしかしたらやる気がないとでも思ったのか、教授が不審な顔をしていたけれど、解答用紙を教授に渡し、教室を出て、すぐに大学を出て、駅に向かい、伯父の葬儀が行われている葬儀場へ向かった。

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