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石原特殊鎖製作所 40

今まで何人もの死を見てきた。
僕がまだ幼稚園児だった頃、鮮明に覚えている光景は、母の一番上の姉である伯母の夫である伯父が死んだ時に、葬儀場へ向かおうと、石原きょうだいとその家族たちが父の車などに分乗する時の様子だ。
その頃父が持っていた車はどこのメーカーだったのかも覚えていないのだけれど、黒の丸みを帯びたミニバンで、伯母の家の前の広い駐車スペースで他の伯父や伯母が僕らと一緒に車に乗ろうとしていて、皆が黒の喪服を着ていて、車も黒かったのでとてもよく覚えている。
そこには、今では他の石原きょうだいと仲違いしてしまった、4番目の伯父の姿があり、伯父と母にいちばん近い姉であるまこちゃんとその夫である伯父が、車に僕らと一緒に乗った。

小さな時の伯父や祖父母、あるいは大学生の時の伯父のように、自分と暮らしたことのない人の死は、それは悲しい出来事ではあったけれど、死亡届を役所に出し、葬儀の手配をすることもなければ、それを取り仕切り、財産と呼べるようなモノやお金があるのか確認したりすることもなければ、それを整理することも、残されたモノを整理し残すものとそうでないものを判断し、適切な処理をすることもなければ、遺骨をどこに納めるのか、そしてそれが入った墓を今後どうするのかなど考える必要もなかった。
ただ子どもの時は母に用意された洋服を着て、両親に連れられて祖父母の家だったり葬儀場に行き、大学卒業後実家を出てからも、あたかも人の死を待っているかのようで30歳近くまで喪服を買うことはなかったけれど、それでも黒っぽいスーツを着て、黒のネクタイを締め、葬儀に行くだけで良かった。

けれど、両親の死は今まで経験した身近な人の死とはまるで違うことをしなければならない。
父の兄である伯父が死んだ時に、それはほんの一部ではあったけれど、伯父の死に伴うあらゆる作業を一手に引き受けていた父の姿の一部を見ていたし、ゴミ屋敷になっていた、僕にとっては祖母の家の片付けもした。
僕がまだ小さい時に、祖母もまだ元気で70歳くらいだったころ、その家に何回か訪れると、荷物よりも猫の方が多かったような気がする。
足下にはナオコと呼ばれる猫が横たわり、幼稚園児の頃には一緒に遊んでいたルルは僕が小学生になると、近づかなくなり、階段のところから僕らの様子をうかがっていた。
他にも何匹かいたのだけれど、ナオコとルル、そしてグレと呼ばれるグレーのきれいな色をした猫は特によく覚えている。
ナオコは一緒に遊んだわけではないけれど、僕らが祖母の家に行き、テーブルを囲む椅子に座ると、必ずナオコは僕の足下に来て構って欲しいという様子など全く見せることはなく、むしろ、ふてぶてしささえ感じさせるほどの態度でそこにいて、ここは私の場所なのよ、というような感じで居座っていた。
けれど、僕が足で触っても決して嫌がることもなく、椅子から降り手でなでるとゴロゴロと喉を鳴らし、時には腹ばいになりお腹も触らせてくれた。

伯父が死んでいるという知らせは、正月に僕ら家族が実家に行って帰った後に警察から来た。
伯父はクリスマスケーキを近くのコンビニに予約していたのだけれど、年が明けても取りに来ないのを不審に思ったお店の人が連絡をしたけれど出ず、家に行っても無反応だったので警察に連絡したとのことだった。
警察も勝手に家に入ることは出来ないので、父と母と兄が祖母の家に行き、そこで伯父がテーブルに突っ伏して死んでいるのを警察とともに確認した。
その日、僕にも連絡があり、伯父が死んだこと、祖母の家がゴミ屋敷になっていることを知らされた。
遺体は既に他の場所に移されていたが、両親と祖母の家に行くと、それはまさしくゴミ屋敷としか言いようのない、僕が知っている家とは全く違う家になっていた。

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