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石原特殊鎖製作所 8

祖父母の骨壺が納められた墓は、入り口のすぐ近く、入ってすぐの左にある。
僕はそこに行くとまず、最近誰かが来たのだろう枯れかかった花を取り、そこに新しい水を入れ、少し洗ってから、上野駅からの途中で買った花を入れた。

僕は一応クリスチャンということになっているし、どういう風にすれば良いのかも分からないので、線香は焚かず、墓石に水をかけ、手を合わせた。
それはいるのかいないのか分からない神に祈るよりもはるかに近い祈りだった。僕にとっては、祖父母が見守ってくれているということ、見守ってくれているかも知れないということが、唯一の願いだった。
神はどこにいるか分からないけれど、少なくとも祖父母の骨と灰はここにある。僕はそれを知っていたから、どうか、おじいちゃん、おばあちゃん、僕のことを見守って下さい、とその墓の前で手を合わせ願った。

死んだ人間に、しかも、殆ど会ったこともなく、声も覚えていない人間にお願いをするということ自体、周りから見ればおかしなことなのかも知れないけれど、僕はその時そうするしか自分を保つことが出来ない状況にいた。
病院に通い、薬を飲み、大量の酒を飲み、たばこを吸い、映画を観、本を読んでいたが、それらをしても慰めにはなったけれど殆ど意味はなく、すがれるのはもはや祖父母の骨壺が納められた墓に手を合わせるしかなかったのだ。祖父母の墓に行き、墓石を少し洗って、花を手向け、手を合わせる。それは僕がそのときすがれるわずかに残されたものの一つだった。どうか、僕を見守ってくれますように。空振りでもかまわない。でも、その時の僕はそうするしか自分を保つことが出来なかった。

お寺を出て道路に立ち、右を向くと、まっすぐに東京スカイツリーが見えた。僕が子どもの時にはそれはなかったのだけれど、今ではすっかりその風景になじんでいて、あたかもそれがずっと前からいるかのように建っているのがとても不思議だった。
僕はそのまま上野駅に向かい、構内にある中華料理屋さんでお昼ご飯を取った。平日と言うこと、まだお昼には少し時間があったこともあり空いていて、明太子と高菜の入ったチャーハンを食べた。店内は思ったよりも広く、奥の方には一組の客がいて、1人客も何人かいたが、少しずつ客が増えると、店内でたばこを吸う人が出始めて、そのにおいが気持ちが悪かったので、急いでチャーハンを食べ終えると、支払い、お店を出た。そして、電車に乗って家に帰った。

一番上の伯母は結婚相手でもある伯父と会社を営んでいて、文具を作っている。やはり母たちの精神的な支柱であることを示すように、僕が結婚したとき、一番多くの祝儀をくれたのもその伯母だった。
伯母にとって母はきょうだいではあるけれど、娘のような存在なのかも知れない。その妹がようやく結婚し、子どもを産んだ。今の、特に都市部では珍しくない年齢で母は結婚し、37歳で僕を産んだ。
そうして生まれてきた僕は、伯母にとって甥というよりも孫に近い存在に近かったのかも知れない。伯母の子どもたち――僕からするといとこ甥、いとこ姪と言うらしい――は母に年齢が近かったし、数人の孫たちは僕よりも年齢が上で、僕が小学生の時には一番上の伯母の孫は高校生になっていた。

伯母は伯母の子どもであるいとこたちも僕をかわいがってくれた。伯母にとっては一番下の妹の子どもであり、いとこたちにとっても一番下のいとこだった。伯母の家に行くたび、あるいは、母の実家に行き会うと、ひろちゃん、また大きくなったわねぇ、と毎回のように嬉しそうにしてくれ、小学生の時には、僕の実家に来たとき、ほんの少し帰り道を案内しただけで、お小遣いまでくれた。そんなことでお小遣いをもらうなんて、そのお金をどうしたら良いのか分からなかったので、家に戻ると母に「お金をもらってしまった」と言い、もらって良いのよ、と言われたので、とりあえず貯金箱に入れた。

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