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石原特殊鎖製作所 37

誰かが残したお金を巡って争いが起きる。
僕からすると、それは人生を変えてしまうような大きな金額とは言えないものなのだけれど、父と叔母が仲違いし、4番目の伯父と他の石原きょうだいは縁を切った。
それまで築いてきた70年近くもの関係を砕いてしまうような金額だったのだろうか、と思うけれど、それは金額の問題なのではなく、お金が起こす出来事なのだろうと思う。

僕が金銭的に、また心身の状態もしんどい情況にいたとき、父は、自分が死んだら生命保険で数百万円のお金が僕に出るから、と慰めなのか何なのか分からないが言ってきたことがある。
僕はその場で「そんなお金、誰かから突然もらうようなお金を期待して生きてはいない。」と言った。
仕事で得るお金も誰かからもらうお金ではあるけれど、父が死ぬことによって得られる保険金や、両親が死んで残されたお金や不動産を当てにしたことは一度もないし、そもそももらう気もない。
兄とはもう20年以上もまともに話したことがないし、お金や家をどうするかを巡って話すことを想像するだけで、頭がクラクラする。
両親が死んだ時、その葬儀と遺骨の埋葬をし供養すること、そして、僕の子どもたちに背負わせることのないように、その両親と兄と僕が埋葬されることになっている墓をどうするか、――それはつまり墓をなくすということなのだけれど―それを考え、実行するだけの気力しか僕にはない。

実家には今も兄が両親と暮らしているので、兄はきっとその家から出て行くことを望まないだろうし、僕自身が育ち、20年以上、今までで一番長く暮らした家でもあるので、それなりに愛着はあるけれど、両親がいないその家に行ったところで、伯父がそうだったように、両親、特に母が死んだとしたら、あっという間にゴミ屋敷になるだろう。
母が死んだら、祖母から形見分けされた着物をどう残すかを最優先にしつつ、母が残した、特にモノと言うよりは写真や記念品などをどのように残すかを考え、それを実行し、父が死んだら、同じように父にとって大切にしていたモノをどのように残すか考えつつも、大量に残された本を処分することになるだろう。
それに関しては兄とどうするかを話し合わなければならないけれど、そうして両親がいなくなった実家には、両親が大切にしていたモノを多少残すかも知れないけれど、僕のモノはその家からは完全になくなり、1人で暮らすには十分な4人で暮らしていた家が残され、そこに兄が暮らすことになる。

両親が死んだ後、その家の資産価値を調べ、分配することになる。その時、僕が平等に分配するように求めれば、必ず兄と争うことになる。
そんな余計に面倒なことはしたくない。お金を巡って争いをしたくない。そもそも実家の資産価値を調べること、あるいは、所有者の変更手続きをすることも面倒だし、それ以前に、葬儀の手配や、納骨、そして、残された墓をどうするかを考えるだけで、めまいがしそうになる。

ただでさえこれからも死者は増えていき、残された人間は少なくなる。
僕の子どもたちのことを考えただけでも、子どもたちは、元妻側の墓を少なくとも2つは管理していかなければならない。
そこに僕側の墓も含めたら3つも管理していかなければならないことになる。そんな面倒なことを子どもたちにさせたくはない。
それは、もしかしたら、死者に対して敬うことをしない、ということになるのかもしれない。
けれど、僕側の墓は祖父が死んだ際に作られたもので、その霊園は僕が会ったこともない祖父の墓参りに行っていたときから、その敷地内の木が切られ、墓を置かれる場所が拡張され、今では、一面が墓だらけになっていて、今も尚拡張している。
祖父の遺骨だけが何十年も入っていた墓には今、祖母と伯父の遺骨が入っているのだけれど、それを管理することよりも、山だった、木が次々と伐採され、墓で埋め尽くされていくことに、悲しみを感じている。
どこまでこの山は拡張されていくのだろうか。
死者が増える度にそこにある木は切られ、山は削られていく。

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