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石原特殊鎖製作所 14

僕が大学に入った年の夏、前期試験の最中に伯父が死んだ。

その伯父は母の一番近い姉の夫で、僕が中学3年生の修学旅行を目前にしていたときに脳溢血で倒れ、そのまま4年間ちょっとの間、病院で寝たきりで過ごしていた。
伯父は公立の中学校で音楽の教師をしていて、定年退職をしたすぐ後に倒れた。
僕はその伯父が好きだった。
音楽の教師ということもあり、母にとってはその伯母がきょうだいの中でも一番仲が良いからか、誰も弾かないのに何故か僕の家にはアコーディオンがあり、それは伯父から譲り受けたものだった。
誰も弾かないこともあり、僕は何回か弾かせてもらったことがあったけれど、最初はアコーディオンが大きすぎて抱えるだけで精一杯だった。
抱えることが出来るようになっても、左手と右手を同時に違う動きをすることが僕にはとても難しく、結局、僕がアコーディオンに触れることもなくなり、僕以外の誰もアコーディオンを弾くことはなかったので、そのうち父が僕らが通っていた小学校に寄贈しようと思う、と言い、それが良いと思うと僕が答えると、父はその伯父から譲り受けたアコーディオンを僕らが通っていた小学校に寄贈した。

伯父と伯母は僕の両親よりも後に、40歳を過ぎた年齢で結婚をしていたので、子どもはいなかった。伯母に聞いたわけでもないので、2人が子どもを望んでいなかったのかも知れないし、望んでいたけれど生まれなかったのかは分からないけれど、2人には子どもがいなかった。
その代わりなのか、あるいは単に母と伯母が仲が良いからなのか、僕ら家族が旅行に行くときに、伯母が一緒に来ることもあった。
今ではもう75歳を超えているけれど、僕は今でも伯母のことを「まこちゃん」と母や父と伯母について話すときには呼んでいる。
実際に伯母に会うときは流石にちゃん付けするのは気が引けてしまうので、「まことおばさん」と呼ぶのだけれど、僕が伯母のことを考えるときはいつでも「まこちゃん」と呼んでいる。
それは母がそう呼んでいるからだし、母のきょうだいの中で子どもの頃から一番僕が会っているのもまこちゃんだったから、まこちゃんという呼び方以外だと自分の中でしっくり来ない。

祖父母、そして2人が死んだ後に精神的な中心となった一番上の伯母を筆頭にした石原きょうだいの中で、僕の父や伯父は石原家の関係者ではあったが、どこか外にはみ出した存在だった。
祖父母が死んだ後は母にとって3番目の兄である伯父の家で開かれるようになった新年会では、いつも伯父は父と同じく、リビングの中心ではない台所に近い食卓に座っていた。
僕もそこにいて、父と伯父が話す様子を見ていた。
伯父はいつもニコニコとしていた。
この人が怒ることはあるのだろうか、と思うほど柔和な人だった。

僕は中学校が本当に嫌で、それは中学校というよりも小学校からだったのだけれど、思春期に入った同級生たちが誰が誰のことを好きだとか、あるいは誰がかっこいいだとか、誰がかわいいだとか、そういう話に巻き込まれることが嫌だったこともあるし、更に中学になると、教師が成績や「正しさ」というようなものを振りかざして、誰が何のために決めたのか分からない規則を守らせてこようとしてくることに心底うんざりしていた。
中学1年生の冬に入った頃、窓側の前から4番目に座っていた僕は、西日が差してきて暑くなってきたので、席を立ち、カーテンを閉めた。
すると、その時の授業を担当していた社会科の男の中年教師が、「おい、藤原、なんか言うことないのか?」と聞いてきた。
特に何も思いつかなかったので僕はただ呆然と立ち尽くしていたのだけれど、クラスメイトとその教師が一斉に僕に視線を向けていた。
僕は何か言わなければならないことがあったのだろうか。
西日が当たって暑いのでカーテンを閉めることに何か問題があったのだろうか。

今でも未だに分からないのだけれど、その教師の目はとにかく、僕が悪いことをしたというような口調と視線を向け、クラスメイトたちは、とりあえず何か言わないと、というような視線を向けていた。

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