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石原特殊鎖製作所 9

僕が結婚したときに一番多くの祝儀をくれたのも、その母の一番上の伯母であり、僕らに子どもが生まれたとき、お金よりも、既に引退していた伯母の会社が作っている文具が欲しいと母経由で伝えたら、大量の、しかも、その頃にはもう生産をしていない文具まで沢山贈ってくれた。

伯母は多くを語らないけれど、いつも穏やかな表情をしていて怒った姿など見たことがなく、僕はめったにすることはないのだけれどそれが当然のようにお願いに応えてくれる。伯母がそういうことをあたかも当たり前かのように出来るのは、伯母がとても貧しい時を過ごしたことがあるからかも知れない。母に聞いたところによると、あの時を思えばどんなときでもなんとかなる、と言っていたとのことだった。
その言葉を僕は伯母から直接聞いたわけではないけれど、それは僕自身が生きる上でもとても大きな意味を持つ言葉になっている。経済的な貧しさならなんとかなる。既にこうして伯母が生きているのだから。今は90歳に近くなり、認知症が進んでいるとしても、経済的な貧しさで死ぬことはない。経済的な貧しさならば、耐えることが出来るし、生き延びることが出来る。

経済的にも苦しい時があっても生き延びた人がいる。そして、それを実際に体験したことがあり、だから大丈夫だと言える伯母。そういう人が身近にいることは、何よりも心強いことだ。
その経済的な苦しさ、貧しさは僕には到底想像も出来なかった貧しさだったのだと思う。太平洋戦争下、その後の貧しさは僕には想像さえ出来ない貧しさだったのだと思う。祖父母の家はあったけれど、伯母たち夫婦にはそもそも家というものさえなかったり、あったとしてもそれは今僕が思い浮かべるような家というほどのものでもなかったのだと思う。
そういう時代と経験を経て、今、僕の身近なところで生きているからこそ、僕自身も生きていけているような気がしている。

僕は幸いにも経済的にも肉体的にも困ったことは殆どない。肉体的には耳というか、それを認識している脳が少しおかしいようで、時々ピーンというような音がして、子どもの時、御茶ノ水にある大きな大学病院にまで通い、検査を受けたのだけれど、結局理由は分からなかった。
その検査を受けるとき、僕はいつも不安だった。雑音はいつも聞こえているのではなく、聞こえている時の方が多いのだけれど、聞こえていないときもあったからで、母に連れられ大学病院に行くときは大体雑音は聞こえなかった。
なので、なんだか僕自身が両親や検査する人、そして医師たちに嘘をついているようで、やましいことをしているようで不安になり、その後は、聞こえていないことにし、母たちも気にしないようになった。でも、今でもピーンという音は聞こえている。

また、大人になってから、心臓に先天的な雑音があることが分かった。骨髄ドナーに登録していて、ある日、山手線に乗ろうとホームに立っていたら携帯電話に着信があり、誰かと思って出てみたら、赤十字社の人で、僕が骨髄提供者の候補者になったという知らせが来た。その場で簡単な健康状態、服薬をしているかどうかなどを聞かれ、大丈夫そうだと判断されたようで、自宅に書類を郵送するので、それを読み、都合の良い時間と病院を、なるべくなら複数選んで返信して欲しいと言われた。
僕はそうして新宿区にある大学病院に行き、赤十字社の人から説明を受け、その後、移植が可能な身体かどうか検査をすることになった。
その時、心臓に雑音があることが分かった。ドナー候補者としての手続きは一旦休止になり、同じ大学病院で心臓の精密検査を受けることになったが、結局分かったのは、先天的な雑音である、ということだった。心臓の機能としては全く問題もなく、形も問題がなく、病気でもない。分かるのは雑音があるということだけだった。

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