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石原特殊鎖製作所 22

「教師を続けるとろくな人間にならない。」と言ったのは僕の父方の祖父だ。祖父は東京の大学を出た後、地元の青森に帰り、そこで公立の高校で教師をしていた。けれど、どんな理由があったのかはよく知らないのだけれど――僕が生まれる前、両親が結婚する前に祖父は癌で死んでいる――、父が中学生になる頃に母校の大学職員になり、関東へ戻った。

父も教員免許を持っていて、一時は教師になろうと考えたこともあるとのことだったけれど、祖父のその言葉を聞いて、会社員になった。
父だけでなく、父の兄である伯父、父の妹である叔母も教師にはならなかった。
父とは違い伯父も叔母もそもそも教師になろうという気持ちはなかったのかも知れないけれど、少なくとも父には祖父の言葉は大きな影響を与えたようだった。

僕も父から、会ったこともないその祖父の言葉を聞いていたので、教師になることにはかなり抵抗があった。
そもそも僕は学校が嫌いだったし、僕が出会った教師たちはおしなべてろくな人間がいなかった。
だからこそ、高校の時に出会ったチャプレンのように、教師とは違う立場で生徒たちに関わりながら学校にいるという、その存在に惹かれたのだった。
教師なのかも知れないけれど、本来は教師ではないという、学校という場において異質な存在に。

祖父の「教師を続けるとろくな人間にならない。」という言葉は一般的に言えば、「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし。」ということになるのだと思う。
結果的に僕はその祖父と同じような道に進んでいる。
教師、あるいは「先生」と呼ばれる立場には長くいられなかった。いてはならなかった。
「先生」と誰かに呼ばれることの愚かさを、誰かに「先生」と呼ばれ続けられるほどの鈍感さを僕は持ち合わせてはいなかった。

先生と呼ばれ続けられると、人は自分が何者かになったような、誰かの役に立っているような、生きている意味があるような気がしてしまうようだ。
僕は何者でもなく、誰かの役に立っている訳でもない。
僕はどんな理由があるのかもわからず――理由などないのだと思う――とりあえず生まれてきたから生きているだけで、僕が生きることによって誰かの役に立っているとも思わない。
実際に、これは直接的な理由ではないのだけれど、僕が教師を辞めることを決めた年、僕の教え子が死んだ。自死だった。
それを知った時、それを知らされたとき、僕が本当に何も役に立たなかったこと、誰かの役に立てるような人間ではないこと、僕が何者かだとか、誰かの役に立っていると無意識の内に思い込んでいたことを痛感した。

自死した生徒は、中学生の時から、僕がいる小さな部屋によく来ていた生徒だった。
僕の席はスペースがないということで職員室にはなく、小さな小部屋があてがわれていた。それはあたかも、僕が通った高校のチャプレン室かのようだった。
学校で行き場のない生徒たちの何人かが、そのように僕がいるその部屋に来ては、お昼ご飯を食べたり、授業をサボって時間をつぶしていた。
彼は、高校生になり、3年生は殆ど登校していない時期になっても学校に来て、僕しかいないその部屋に来て「ご飯食べて良いですか?」と聞いて、部屋に入ってきて、ただ黙々とご飯を食べていた。
彼も僕も特に何か話すのではなく、ただお昼休みに一緒にいた。彼は彼が持ってきたお弁当を食べ、僕は僕が持ってきたお昼ご飯を食べたり、仕事をしたりしていた。
彼はお弁当を食べ終えると、「ありがとうございました。」と言って、その部屋を出て行った。

そして、彼は高校を卒業して数ヶ月後に死んだ。
どうやって死んだのかは聞かなかった。けれど、自殺した、とだけ聞いた。聞かなくてもそれは分かる。18歳で死ぬ理由は限られている。どんな鈍感な人間だって、その年齢で死んだと聞けば、どうやって死んだのかは分かる。
彼は自分で死んだのだ。

彼の死を聞いたとき、聞かされたとき、僕は机の中にしまっておいた香典袋に3千円を入れ、通夜に行くという同僚の教師にそれを渡した。
その同僚である教師は香典袋に名前がないことに難色を示し、名前が書いていないと相手も困ってしまうだろうと言い、仕方がなく、僕はその香典袋に自分の名前を書いた。

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