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石原特殊鎖製作所 44

祖母の家にあった祖父が残した満州に関する資料は父がどこかに寄贈した。
確かにそれらは僕が初めて見たものだけれど、専門家ではない僕が見たところでも、祖父が勤めていた大学に寄贈しても受け入れられるかは分からないような資料だった。
祖父が勤めていた大学なら多分このくらいの資料は残っているような気がした。
それでも、と父が大学に寄贈したのか、あるいは祖父が勤めていた故郷の高校に寄贈したのか、または他のところに寄贈したのか、それらをどうしたのかまでは、その後の祖母の家の処分や伯母との相続を巡ってのどさくさを見ていた内に、その資料は既に父がどこかに渡してしまっていたので、その後のいきさつまでは聞けなかった。

それよりも、普段感情を表に殆ど出さない父が珍しく嬉しそうに、額に入れられた祖父が書いた手書きの履歴書を僕に見せてきた。
それは実家のベランダに近い棚の目立たない場所に置かれていた。その履歴書には、名前、出身地、通っていた高校と大学(当時は予科だったけれど)とその後の勤め先が書かれていたのだけれど、僕の目に入ってきたのは、出身地とともに誰の何番目の子どもであり、「平民」と書かれていたことと、大学を一度何らかの理由で離れていたということだった。
1年ほどして復学したことも書かれていたのだけれど、なぜ大学を離れなければならなかったのか、その理由は履歴書には当然書かれていないので、祖父が大学を離れなければならなかった理由は分からない。
父もそれについて何も言わなかったし、僕はただ、「平民」と書かれていたことと、何らかの理由で大学を休学し、そして、それらが書かれた履歴書の文字が今まで見たことのある文字の中で一番きれいだったことが頭の中に残った。

僕は祖父と父の故郷である東北の街に2回行ったことがある。
1度目は僕がまだ小学生になって間もない頃、家族で父が運転する車に乗で、東北各地をキャンプしながら巡ったときで、次は、僕が大学4年の夏休みだった。
その夏休みに僕は大学のワークキャンプで東北にある小さな町に行っていて、キャンプを終え、他のみんなが東京方面へ帰るのと反対方面に向かう電車に乗り、僕はその祖父と父の故郷である街に向かった。
僕がいたところからはちょうど電車で1時間もかからないところで、電車から降りると父から教えてもらっていた、かつて父たちが住んでいた住所を頼りにその場所に行った。
その場所に着くと、そこには家はなく駐車場になっていて、父たちが暮らしていた様子は全く分からなかった。
けれど、その隣には父の親戚にあたる人の家があって、父からはあの家とはもう東北を離れてからは関わっていないということを聞かされていたので、かつて父たちが暮らしていた家があったとされる駐車場を数分眺め、その親戚だという家の玄関の名前を見てから、祖父が働いていたという高校に向かった。

その高校は夏休み期間だったからか、校庭に生徒の姿もなく、校舎も特に印象に残らないものだった。今ではぼんやりとしかその高校を思い出せない。
その後、父たちが通っていたという教会があった場所にも行ったが、そこは教会ではなく、小さなホテルになっていて、その周辺を少し歩いてみたけれど、その殆どがシャッターを閉めていた。
多分それは、その街の中の居酒屋などが並ぶ場所だったから、まだ営業をしていないだけだったのかも知れないけれど、準備をしているような音も聞こえず、静まりかえったその場所を歩くと、とてもさみしい気持ちがした。
父はこの町で生まれ、この町で育った。
そして、祖父が働いていた高校も見た。
けれど、その町はもう、父たちが暮らしていた頃とは全く違うものになっているということだけは僕にも分かった。

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