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石原特殊鎖製作所 19

僕が教員になったのは伯父が教員だったからではなかった。
働いている姿を見たことはないけれど、伯父のような教師に僕がなれるとは到底思えなかった。いつも穏やかで誰に対しても敬意を払う。それは、教師という立場になるとすぐに忘れてしまうもののようで、僕が出会った教師たちの殆ど、あるいは全員と言っても良いかも知れないけれど、それが出来ていなかった。

それは教師たちが毎日「先生」と呼ばれているからなのかも知れないし、あるいは、自分が何かを教える立場であり、成績などで目の前にいる誰かを何かしらの価値観に基づいて判断を下す、判断を下せる立場だからかも知れない。そもそもそういう立場にいることを自覚している教師自体が少ないように思う。
はたまた、教師という立場だけでなく、単に年齢を重ねた人間だということだけで、人は他者、特に自分よりも若い人たちに敬意を払わなくなってしまうのかも知れない。年を重ねた男性が男性に対してなら絶対に取らない態度や言わない言葉を平気で若い女性に向けるのと同じように。
とにかく、僕が出会った教師はおしなべて僕たち生徒に敬意を払うことはなかった。

だからこそ、伯父のように誰に対しても敬意を払う人間、教師に自分がなれるとは思えなかった。
僕に対して初めて敬意を表してくれた教師は大学の指導教授だった。
大学、大学院と主査を務めてくれた先生は、僕ら学生を必ず「○○さん」と呼び、僕らに対して何かを教えるというよりも、一緒に考えるということをしてくれた。
だからこそ、僕は在学中から先生が好きなキティちゃんグッズを旅先で買っては、今でも先生の元に届けている。

僕は先生の都合にかまわず、自分の空いた時間に大学の研究室に行っているので、殆どの場合は先生に会うことは出来ないのだけれど、旅先で買ったキティちゃんグッズと名前を書いた付箋を添えて、研究室の扉横にある小さな連絡箱に入れておく。
しばらくすると、先生から「藤原さん、ありがとう。元気にしていますか?」というメールが来る。それに対して僕も返信する。年に一回かあるかどうかの、そのほんの小さなやりとりを先生との間でいつの間にか10年以上もやっている。
僕が学生の時からずっと変わらずにそうして接してくれている教師は先生の他にはいないから。

だからこそ、僕が伯父のような教師になりたいと思ったこともなければ、なれるとも思わない。そして、僕が大学の教員になれるとも思ったこともない。僕は大学の教員になれるほどの頭の良さもなければ、一つのことに集中することも難しく、研究を続けるには向いていない。
僕は僕の必要があって、僕がやりたいことがあって、とりあえず中学校と高校の教員免許を取った。

そのやりたいことというか、教員免許を一応取っておこうと思ったのは、高校での1人の教師というか、高校にいた牧師、チャプレンの存在が大きい。
僕が通った高校はとにかく自由だった。
中学までが何だったのかというほど自由だった。
法に触れないことならば、基本的に何をしていても自由だった。
制服は一応あったのだけれど、着用義務もなかったので、温かくなってくると、みんな私服になり、寒くなってくると、制服を着るようになった。
それは単に、制服は暑いので、夏は短パンとTシャツ、冬になると寒いので制服を着る、というそれだけの理由だった。

髪型も髪色も自由で、茶髪にする生徒、ピアスをする生徒も多かった。
僕の前に座っていたM君は、鼻にピアスをしていたし、髪の色も青だったり、「色が抜けちゃって」と言いながら、髪がピンク色になっていた。
トイレに行くと、たばこの臭いがし、たまにクラスメイトが教師に見つかって、停学になったり、授業中に教師が席の間を歩いているときに「おまえ、ちょっと臭わないか」と言いながらも、特におとがめもない、というのが僕が通った高校だった。
3年間の中で僕が注意というような注意を受けたのは、一度だけで、それは夏にビーチサンダルで行ったときだった。
担任が「危ないからやめておけ」と言い、確かにそうかも、と思ったのと、鼻緒のところが痛かったので、それ以降はビーチサンダルで行くのをやめた。

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