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石原特殊鎖製作所 41

両親と僕が祖母の家に行くと玄関の外には新聞がうずたかく積まれていた。
玄関の鍵を開けると、真っ先に飛び込んできたのは臭いだった。一度嗅ぐだけで吐き気がするような、今まで嗅いだことのない臭いが飛び込んできた。冬の時期だったのでマスクを持っていたのでマスクをしたれど、それでもその臭いは和らぐことはなく、すぐにでも出て息をしたかった。けれど、家の中に入らなければならない。
なるべく口で息をするようにし、息をする回数も少なくするようにして中に入ると、床や入ってすぐ左手にある靴入れなどに新聞が積まれ、床が見えない状態だった。
多分数十センチは積まれているであろう新聞の上を歩くのは、とても難しく、それはぬかるんだ山を登るのとも違う歩きにくさがあった。
10数メートルほど直線に進み、リビングの伯父が突っ伏して死んでいた食卓にたどり着く、というそれだけのことだったのだけれど、そこにたどり着くまでとても長い時間がかかった。踏ん張ろうとすると新聞で滑り、ふらつきながら、壁に手を当てながら、ようやくリビングにたどり着くことが出来た。

たどり着くまでに長い時間がかかったのは、高く積まれた新聞の上を歩く難しさもあったのだけれど、見渡す限りにモノが積まれ、そのモノは明らかにゴミで、僕が小学生になる前に兄と泊まり一緒に寝た、玄関に入ってすぐ左の応接間や、右手にある洗面台とトイレ、風呂にもモノが溢れ、どうやって伯父がこの家で暮らしていたのかも分からない、どうすればこの家で暮らすことが出来たのかも分からない状態になっていて、僕の記憶にあった祖母の家との違いを受け止めるのに時間がかかったからなのかも知れない。
そして、家の中を満たしている臭いでなるべく息をしないようにしていたことも、頭の回転を鈍くし、それがとても長い時間に感じさせているように感じた。

リビングの食卓にたどり着いた僕と両親は、貴重品を探し始めた。
伯父は近くにあるコンビニによく行っていたようで、そのコンビニの方が伯父が店に来ないということで警察に連絡してくれたのだけれど、貴重品は伯父が座る椅子の近くにあるということも知っていて、僕らはそれを教えてもらっていた。
父と母と僕は何が積まれているのかも分からないモノの上で、椅子の場所周辺に貴重品がないか探した。
父も母も僕も家の様子とその臭いに困惑し、すぐにでもこの家の外に出て行きたかったこともあり、それは長い時間がかかったような気がしたけれど、椅子の横に黒色のポーチが落ちているのを母が見つけ、その中に財布やら銀行の通帳やカードなど一式が入っていた。
その中身を3人で確認すると、僕らはすぐにその家から出た。
臭いはきつく、それ以上この家の中で息をしたくなかった。
それは10分もかからなかったのかも知れないけれど、僕が着ていた洋服の隅々にまで染みこんだような気がした。
着ている洋服を全部脱ぎ、今すぐにシャワーを浴びたかった。

一旦家から出て、銀行の通帳やカード、財布などが入っているのを確認した後、僕はまた家を見た。
家からはゴミ―その大半は新聞だった―があふれだし、草木は何年も手入れがされていないのが分かるほど延びきっており、その一部は電線にまで絡まっていた。
「今日はこれだけで十分。」と父が言った。
そして父は玄関の鍵をかけた。
「これからのことはまた後で決める。その時にはまた連絡する。」と父は言った。

それから数日後、母から連絡があり、家を片付ける日を決めたいからと、僕の予定を聞いてきた。
僕の予定はあらかじめ伝えておいたけれど、確認のためということで連絡があり、伝えられた日に僕は祖母の家に向かった。
基本的には業者に任せるけれど、貴重品や、捨てるかどうか判断したりしなければならないので、父と母と僕が立ち会うことになった。
その日は曇っていて、1月のことだったから、とても寒かったのを覚えている。

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