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石原特殊鎖製作所 27

伯母の家で会う従姉妹の子どもは何人かいて、その中の一人は国立の小学校に入学した。
僕にはそれがどんな意味を持つのかは全く分からなかったけれど、とにかく、そのことに対して、すごいね、という言葉を、大人たちが沢山かけていて、本人も照れくさそうに、しかし、その一方で誇らしげにしていたのを覚えている。
その一方で、知的障害を持つ、従姉妹の子どもはどこか隠された存在のようにされていた。僕らが伯母の家を訪れるような、従姉妹と従姉妹の子どもたちも来るような機会の時は当然そこにいたのだけれど、集まり、というのではなく、単に何かの用事があって、ちょっと寄るというような時には彼女は顔を出すことはなかった。

それがどんな意味を持つのか、国立の小学校に通うことが何故褒められるのか分からないのと同じように、彼女がどこか隠された存在かのようにされていることも僕には全く分からなかった。
彼女は言葉も話せたし、実際に、伯母の傘寿のお祝いにも来ていて、その時にはもうすっかり大人というのとは違うけれど、少女というか、高校生くらいになっていて、見た目は一人の女の人になっていた。
そして、多くの人が集まる場に来ることが出来るということ、その場にいても全く混乱しているような素振りがなかったので、何故僕らが伯母の家に行くときに、彼女が隠されるような扱いをされていたのか、やはり今でも僕にはよく分からない。
僕らが伯母の家に寄ったときに顔を見せなかったのは、本人がそうしたかったのかも知れないし、家族がそれが親戚であったとしてもあまり他の人に会わせたくないと思ったのか、そこまで考えていなくてもなんとなく身についた習慣でそうさせていたのかは全く分からない。

僕が子どもの時に分かったことは、大人たちにとっては、国立の小学校に入学すること、そこに通っているということが、ただそれだけで「すごい」と言われるようなことであることと、知的障害ということがどんなことなのか全く分からないということだった。
僕が覚えている彼女の姿や行動は特におかしなことはないと思えたし、年齢が近い訳でもなく、彼女が幼児くらいの年齢の時には僕は小学校の高学年になっていたので、一緒に遊ぶという感じにもならなかった。
彼女がまだ幼児だった頃、僕は小学校の高学年くらいになっていて、その時、彼女は1人何かに夢中になり遊んでいた。
それがどんなことだったのか全く覚えていないのだけれど、1人夢中で遊んでいる様子だけは僕の中でくっきりと覚えている。

僕が大学生になり、教職課程の中でやらなければいけない、介護実習で、実習先になった特別支援学校では、一週間知的障害を持つ1人の少年と、担任の年輩の男性教師と一緒に過ごした。
その男性教師は、かなりの長い間いわゆる普通校で教員をしていて、その時の担任の生徒は、普通校で働いていたときの教え子の子どもということだった。
朝、学校に生徒が来るとまずは校庭をランニングし、その後は彼と男性教師と一緒に3人でずっと一つの教室で過ごしていた。
その生徒が何をしていたのかというと、新聞紙をもらい、それを細かくちぎり、そのちぎられた新聞をさらさらと舞いあげたり、触れたりして遊んでいた。
それが少なくとも僕がいた一週間ずっと彼がやっていたことだった。
学校の帰り時間になると、その生徒はきちんと自分がちぎった新聞を箒とちりとりでかき集め、ゴミ箱に捨てた。

「彼がやっていることは、小さな子が水たまりにポチャンと入るようなものなんです。」

毎日学校にいる間にずっと繰り返している新聞をちぎり舞い上げ、さらさらと触っている様子に僕が戸惑っているとでも思ったのか、男性教師はそう言った。
「藤原さんも子どもの時、水たまりの中にポチャンと入りませんでしたか?」
「そのとき気持ちよくはありませんでしたか?」
「はい、気持ちよかったです。」
「彼がやっていることは、そういうことなんです。」
「ただ、それが他の人よりも長いということなんです。」
「だから、きっといつかこれも終わる時が来るんだと思います。」

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