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石原特殊鎖製作所 26

母に一番近い姉の夫である伯父が亡くなった後しばらくは、石原の親戚で死ぬ人はいなかった。
僕が小さな時に毎年のように誰かが――伯父、祖父、祖母、いとこ、はとこ――が死んでいたので、なんとなく不思議な時間だった。
父方と合わせると僕には18人の伯父と伯母、叔母がいて、いとこが16人、はとこは調べたことがないので何人いるのか分からないけれど、小さな時に親戚が集まっている記憶といえば、石原の新年会と同じくらい、誰かの葬儀だった。

けれど、僕が大学生の時に伯父が死んでからは何年も誰かが死ぬことはなかった。
その時にはもう祖父母はいなかったし、祖父母にとって僕が一番下の孫で、他のいとこたちは家庭を持ったり、仕事の関係で関東にいない人もいたので、自然と石原の新年会は母ら石原のきょうだいと、その配偶者たちだけで行われるようになり、僕らが呼ばれることはなくなった。

最後に石原の親戚一同が集まったのは、母の一番上の姉である伯母が80歳になり、傘寿祝いを兼ねた時だった。
僕はその時結婚していて、長男が生まれていた。
都内のターミナル駅のすぐそばにある大きなホテルの100人規模が入れるホールを貸り、伯母の傘寿のお祝いと称して石原の親戚一同が集まった。
それは、伯母のお祝いという名目だったけれど、祖父母が残したものを確認するという、最初で最後の会だということを多くの人たちは分かっていたのだと思う。
だから、そこまで広範囲には広がっていなかったけれど、関西や中部に住んでいたいとこたち家族もその会に来ていた。
実際に、その後、10年以上経つけれど、そのような会は一切開かれていないし、今後も開かれることはないのだろうと思う。

その都内にある大きなホテルのホールで開かれたパーティーには石原の祖父母に連なる親戚が一同に会していた。
その場にいる半数以上のことが僕にはよく知らない人たちだったけれど、それはみんな一緒のことだったので、石原きょうだいを中心に簡単な紹介があった。
母の家族として僕ら家族も紹介された。
流石に母のきょうだいのことは当然分かっているし、新年会に来ていたいとこたちのことは、何年も会っていなかったとしても覚えていたけれど、新年会に来ていなかったいとこたちや、その子どもたちのことは会ったこともなかった。
それは、いとこたちも同じことで、僕のことを全然覚えていなかったり、結婚し、子どもがいることを知らない人たちも沢山いた。

その後、本格的に会食が始まると、小さな時には僕はメガネをしておらず、兄がメガネをしていて、兄は大人になってからメガネをしなくなったので、僕を見てひろちゃんじゃなくてまさちゃんかと思った、と何人かの人に言われた。
それは僕が結婚し、子どもがいるということもあったのだと思う。
僕は22歳で結婚し、予定日よりも早く生まれてきたこともあり、僕が23歳になる少し前に長男が生まれていて、兄は結婚をしていない。
兄と僕とでは、世間一般というような物差しから測ると、何もかもが逆転していた。兄と間違われるのも仕方がないように思えた。
それまで兄と間違われるという経験をしたことがなかったので、戸惑いはしたけれど、確かに間違えても仕方がないように思えた。

その会で覚えているのは、僕のいとこ、それも上の方の従兄弟が僕らの結婚披露宴の司会をしてくれた妻――その後元妻になるのだけれど――の友人の上司だったことと、知的障害を持つ従姉妹の子どもに久しぶりに会ったことだった。
彼女は確か僕が小学生になった頃に生まれてきたと思う。
祖父母が死に、祖父母の家での新年会はなくなり、伯父の家で新年会をするようになった頃から、僕らは母に連れられ、車で20分くらいのところに住んでいる、母の一番上の姉である伯母の家に行くようになっていた。
元々、母が一番頼りにしていて、結婚した当初、伯母の家の近くに住んでいたこともあり、僕らは度々伯母の家に行っていたのだけれど、その時に僕はいとこの子ども、伯母の孫たちに会うことがあった。

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