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僕はひどく疲れている。11

差し出された鳥の刺し盛りは8種類くらいあって、きれいに盛り付けられていた。

その一つ一つが鳥のどの部分で、どうやって食べたら良いのかを、何種類かのタレ・薬味と一緒に店員さんが丁寧に説明してくれた。
また、足が早いので早めに、この時間までに食べて下さい、と具体的な時間――20分後――を店員さんは言った。

僕は鳥の刺身を食べるのが初めてだったこともあって、それが鳥のどこの部分なのかよく分からなかったけれど、とりあえず、手前にあったものを店員さんが教えてくれた通りの食べ方で、一つつまみ、チョンと少しだけタレにつけて食べた。
「美味しい。」
美味しかった。新鮮なものは美味しい。僕が食べ物に関して知っている、殆ど唯一のことが、このことだった。
それは野菜もそうだったし、肉もそうだった。
新鮮なアスパラガスをもらったことがあって、そのアスパラガスは僕が見たことのある中で一番太いアスパラガスで、単に塩ゆですれば良いものを、ベーコンと一緒にバターで炒め、それに少しの醤油とブラックペッパーを振りかけて食べた。

それを口にしたとき、僕は間違っていたと思った。余計なことをしてしまった、と。
そのアスパラガスには何もする必要がなかったのだ。
生ででも良かったくらいに、そのアスパラガスは、見た目の太さとは関係なく、柔らかく、甘みがあった。
何か手を加えるとしても、ほんの少しだけ塩ゆですれば良かったのだ。
新鮮なものはなるべく手を加えなくて良い、新鮮なものはそれだけで美味しいのだから。

隣に座っていた彼女はその僕の一言に安心したようで、彼女も一つ箸でつまみタレにつけてから口に運んだ。
「美味しいですね。」
「うん、美味しい。」
「鳥の刺身食べるの初めてだよ。こんなに美味しいなんて知らなかったよ。ありがとね。」
「それは良かったです。わたしも前から気になっていたお店なので。」

彼女はそれを聞いてとても嬉しそうにしてくれた。
その後、フジモトと会ったときと同じように、Sさんの話はしなかった。彼女はSさんを知らないし、僕がSさんの話をしたところでSさんが自殺したことは変わらない。
そして、Sさんのことを思い出せば涙が出るだけだった。そんな話をしたところで何にもならない。Sさんは自殺し、もういない。あるのは墓の中で骨壺に入れられた焼かれた骨と灰だけだ。
彼女もそれを分かっていただろうし、話しても無駄なことを話さなくて良いことも彼女はよく分かっていた。

僕らは時々鳥刺しをつまみながら、彼女と僕が出会うことになった大学生の時の共通の友人たちの話をした。あの人は今どうしているのか、誰と連絡を取っているか、そういえば今度あの人に会うんですよ、たしか、あの人はまこさんの近くに今は住んではるはずですよ、云々。

「仕事はどうですか?」
「忙しいねぇ。今回も13連勤だったし。意味わかんないよ。あんまり記憶にないし。」
僕は心底疲れていた。
新しい職場、新しい土地、新しい環境、新しい人間関係、慣れない仕事。何もかもが僕を疲れさせ、身体は重く、気力だけでなんとか乗り切っていた。そして、Sさんの死の報せ。今、自分がいるこの場所が大阪じゃなくて、東京ですよ、と彼女に言われたら、多分僕は本当に東京にいると思っただろう。

「そっちはどう?」
「今度わたし、支店長になるんです。」
「すごいじゃん。」
「でも、支店長で女性なの、わたしがはじめてなんです。」
「そっかぁ、なんかめんどくさそうだな。」
「部下が50代とかなんですよ。」
「それは大変だろうね。」
「そうですよ。嫉妬ですか?なんかそういうのすごくて。」
「あぁ。なんかすごくめんどくさそう。」
「そうなんですよ。」
「僕はそういう世界からなるべく距離を取ってきたからなぁ。」
「しかも、営業先でも何故かわたしが嫌いなお客さんから好かれたりして。」
「それ、前にも言ってたよね。」
「ホント嫌で。わたし、嫌だって直接相手に言ってるんですよ?わたしはあなたのそういうところが嫌です、って。でも、何故か気に入られて。」
「それが良いんだろうね。多分、そういう人たちって、面と向かっておかしいですよとか言ってくれる人が少ないんだよ。だから、逆に気に入られるんだろうね。」
「イヤ、ホント無理なんです。」

彼女がしている営業という仕事を考えるだけで僕は頭がクラクラする感じがした。まず、知らない人たちを相手にしなければならない。そして、その相手に自分たちが扱う商品がいかに良いものかを説明しなければならない。説明を聞いてくれるのはまだ良い方で殆どの場合は無碍に扱われる。
ようやくなんとかして説明する機会が与えられたとしても、無碍に扱われることもあるし、接待もしなくちゃいけない。そして、なんとか売り込み、契約し、社内では納期までに出荷できるように指示を出し、調整する。契約まで至ること自体とても難しいだろうし、契約したところで終わる仕事でもない。
納品した後にも、「言っていたのと違う」と言われることだってあるだろう。営業という仕事は取引先との関係が始まるときから、終わるときまで延々と続く仕事なのだ。
それを想像しただけで頭がクラクラした。そんな仕事を僕にはとても出来ない。1週間やるだけで死にたくなるだろう。
その世界で彼女は生きていて、そして成果を得て評価も受けていた。
けれど、その成果も評価も「女性だから」ということで扱われ、嫉妬される。

「あいつは女だから」

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