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僕はひどく疲れている。20

会計を済ませお店を後にすると、僕らは駅に向かい、新大阪駅に向かった。

彼女は僕が新幹線を使って帰ることを知っていたので、わざわざ新大阪駅まで数駅のお店を選んでくれていた。こういうことを自然と出来てしまうことは、確かに周りの人からは嫉妬されてしまうのだろうな、とも思った。自然と出来てしまう、というのは本当は違っていて、わざわざ僕のために、僕の帰りのことまで考えた上で、僕が食べたいと言っていて、かつ美味しくて気軽に入れるお店を彼女は選んだのだ。それは彼女にとっては努力とは思わないのかも知れないけれど、それが出来ない人は無数にいて、そういう人たちは、実際には様々なことを考えて、リサーチして行っている彼女の行動の表面だけを見て、嫉妬するのだ。
彼女が仕事で結果を出していることも、お客さんたちに気に入られているのもそういうきめ細やかな彼女の行動が評価されているのだろう、と僕は思った。

新大阪駅で僕は電車を降り、彼女はそのまま電車に乗り、電車が発車し、彼女が見えなくなるまで僕は手を振った。
そして、JRの券売機に向かい、新幹線の切符を買い、そのまま一番早く来たのぞみに乗った。

それが日曜日の夜だったからか、自由席でも乗客はまばらで、混んでいる時以外はいつもそうしているように窓際に座り、とりあえず寝ようと目をつむった。
明日の8時にはまた職場にいなければならない。
スマートフォンの検索によると、僕が家に着くのは24時近く。
そこからシャワーを浴び、寝て、起きて食事を取り、職場に向かうこと――しかも、それは週の初めである月曜日――を考えたら、新幹線に乗っているこの数時間の少しの間だけでも寝ておきたかった。

でも、僕にとってはいつものことだけれど、結局眠ることは出来ず、ウトウトとしながら、今日の出来事、フジモトに会い、大学からの友人である彼女と会い、話したこと、そして、Sさんが自殺したことを考えていた。
何故Sさんは死ななければならなかったのか。
何故それはSさんでなければならなかったのか。
何故それは僕ではなかったのか。

新大阪駅での別れ際、彼女は僕にこう言った。
「死んじゃダメですよ。」
正直、自信がなかったので、曖昧な応えしか出来なかった。
積極的に「死にたい」とは思わないけれど、「生きたい」と僕は思ったことがない。
むしろ、何かのきっかけで死が訪れないかと思いながら過ごしている。多分、それは誰にも言ってはいけないことで、実際にそれを言ったことは一度だけだった。

僕は小学生のころ、母親に「生きてない方が楽だった」というようなことを言い、それを聞いた母親はひどく泣いた。
それを見た僕は、これは誰にも言ってはいけないことで、母親はもちろんのこと、二度と誰にも言ってはいけないことなのだと思った。

Sさん、フジモト、僕ら3人の目の前にはいつも死があった。それは他の人の死でもあったが、僕ら自身の死でもあった。
だからこそ、僕らは校舎の屋上の喫煙所でたばこを吸っていたのだ。

人はいつ死ぬかわからない、あるいはいつまでも生きていると考えている、と多くの人は言う。
けれど、僕らは違った。僕らの目の前にはいつも死があって、それは他の人が言う「人はいつ死ぬかわからない」というような曖昧なものではなく、もっと明確で、具体的なものだった。
ふとしたきっかけで僕らはその引き金を引いてしまう弱さを抱えている。

Sさんはその引き金を引いたのだ。
フジモトも僕も何度もその引き金に手をかけたことがある。
けれど、僕らは偶然や、薬や酒、あるいは、引き金にかけた手を強引に引き戻したり、つかんだりする人がいたことで、たまたま引き金にかけた手に力を入れることがなかっただけなのだ。

結局眠れないな、と諦めた僕はiPadを取り出し、本を読むことにした。

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